吹く風

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さよなら西鉄ライオンズ-鉄腕逝く

初めて球場でプロ野球を見たのは、小学4年生の時(昭和42年)だった。

小倉球場での西鉄・阪急戦、ダブルヘッダーだった。

そのどちらかの試合で稲尾が投げたのだ。

その頃はまだ、西鉄ライオンズのことを詳しく知らなかった。

だが、稲尾や中西の名前だけは知っていた。

なぜなら、パッチン(メンコ)でいつもお目にかかっていたからだ。

初めて生で見るパッチンの人、稲尾投手はまぶしかった。

当然その時から、本格的に西鉄ライオンズを好きになった。



小学5年の時(昭和43年)だったと思うが、遠足で福岡市内に行ったことがある。

ちょうど福岡市に入った時だった。

バスガイドが、「この中に西鉄ライオンズのファンの方いますか?」と聞いた。

ぼくを含めて、半数以上の男子が手を挙げた。



何かと思ったら、

「けっこういますね。はい、左手をご覧下さい。今建築している建物があるでしょ」

見てみると、なるほど鉄筋の家を建てている。

「あれは、西鉄の稲尾投手の家なんですよ」

ということだった。

その時は別に感動はしなかったが、いまだに憶えているということは、けっこう印象深かったのだろう。



さて、稲尾投手は、ぼくが6年生の時に現役を引退した。

その後、黒い霧で責任を取って辞めた中西監督の後を継ぎ、西鉄ライオンズの監督になった。

しかし、黒い霧事件容疑で主力選手が追放されたチームは弱かった。

弱いと客が入らない。

客が入らないと、収入も減る。

西鉄は球団を手放した。



中学3年の時(昭和47年)、ぼくは小倉球場で行われた「さよなら西鉄ライオンズ」を見に行った。

相手はV8を達成したばかりの巨人だった。

巨人の監督は川上、一方の西鉄の監督は、その川上を現役引退に追いやった稲尾ということで、ある種の因縁をぼくは感じていた。



で、試合はどうだったのかというと、よく憶えていない。

なぜか巨人側である3塁のベンチ上に座っていたので、友だちといっしょになって、敵である長嶋や王にヤジを飛ばしていた。

そのため、試合をろくに見てなかったのだ。



しかし、考えてみると、その後太平洋クラブライオンズの試合は見に行ったことがないし、評論家になってからの稲尾にもお目にかかったことはない。

ということは、稲尾が西鉄のユニホームを着た最後の試合が、結局はぼくが稲尾を見た最後になったわけだ。

一番いい時に見られたのかもしれないな。

ご冥福をお祈りします。