東京時代
このブログのタイトル『吹く風』は、ほくが1978年9月から付け始めた日記帳のタイトルなのです。それからずっと書き続け、途中何度かタイトルを変えたりしたものの、結局いつも元のタイトルに戻り、今もなお書き続けているわけです。 何で吹く風なのかと…
東京にいた頃、下宿の近くに戸塚第二小学校というのがあった。 所在地は新宿区高田馬場なのに、何で戸塚などという横浜の地名が付いているのだろうかと、そこに住んでいる時は不思議に思っていたものだ。 その理由を知ったのは、東京を離れてからのことだっ…
東京にいた頃、ぼくは高田馬場に住んでいた。 早大生でもないのに、どうして高田馬場かというと、不動産屋に下宿を探しに行った時に、先方が「どういうところがいいですか?」と聞くので、「本屋の近くがいいです」と答えたら、「じゃあここはどうでしょう」…
先にも書いたが、ぼくは東京にいた頃、毎月1回以上は浅草に行っていた。 あれは、夏の帰省前のことだった。 いつものように浅草に行き、お参りをすませた後で、境内をブラブラしていた。 前の日に、ぼくは帰る仕度をするために徹夜をした。 その疲れが、境…
神保町はともかく、ぼくが浅草に行くのにはわけがある。 26年前、東京に出る時に、居合道場の先生から、「東京に行ったら、まず浅草の観音さんにお参りしなさい」と言われた。 その道場には観音像が祭ってあった。 ぼくは中学の頃に、その道場に入門したの…
『あしたのジョー』の中での話。 力石徹がジョーとの対戦のために過酷な減量している時、マンモス西がジムをこっそり抜け出して、屋台のうどんを食べに行った。 それを知ったジョーは、西を追いかけて行き、うどんを食べている西を殴った。 「こんなところを…
こんなぼくでも、東京に出た当初は自炊をしていた。 そのおかげで、最初の頃、ほんの少しの期間だったけど、計画的にお金を遣うことができた。 まあ、それが出来たのは、まだ友だちもいなかったということのほうが大きかったのだが。 で、どんな料理が出来る…
東京にいた頃、ぼくは食うや食わずの生活を強いられていた。 強いられていたは大げさだが、要は自分でそういうふうにしてしまっていたのだ。 原因は、ぼくの金遣いの荒さである。 バイト代や仕送りなどで、まとまったお金が入ってくると、いつも飲みに行って…
東京から戻ったぼくは、仕事を探しながらも、ふるさとを満喫していた。 やはりふるさとはいい。 それまで、力んでいた生活が一気に溶けたのだ。 妙な孤独感もなかった。 すぐに友だちに会うことも出来る。 もしかしたらあの人に会えるかもしれない、という確…
ある時、ぼくは友人AにN美のことでグチを聞いてもらった。 友人Aは言った。 「やったのか?」 「・・・あのねえ、つき合ってもないのに、何でやらんといけんの?」 「いやー、やっちゃうと大変だよ。あとが」 「だから、やってないって」 言うんじゃなか…
西から風が吹いてきたら 西から風が吹いてきたら 朝一番の汽車に乗って 懐かしいふるさとに帰るんだ 向かい風をたどってね 雨が降ったってかまわないよ 傘の一本もいらないよ だってぼくのふるさとは いつだって晴れているんだから 小さな思い出をたどっても…
このバイト中、ぼくは一度だけ活躍したことがあった。 マルタイ食品の『長崎チャンポン』というのがある。 九州で大ヒットしたカップ麺で、ぼくがそのスーパーでバイトしていた時に新たに店頭に並べられるようになった。 Hさんが、「お前、これ知ってる?」…
東京に戻ったぼくは、また友人とアルバイト探しをした。 もう運送会社はまっぴらだったので、今度はほかの業種を選ぶことにした。 アルバイトニュースを買い、総武線沿いを重点的に探した。 ほどなくいいところが見つかった。 四谷にあるスーパーマーケット…
○運輸をクビになってから数日して、ぼくはまた北九州に戻った。 ま、ただの夏休みであるが。 7月中旬に戻ったぼくは、春にアルバイトをした運送会社にコンタクトを取った。 来てくれ、と言うことだった。 さっそく翌日からアルバイトを再開した。 仕事は、…
ある日、原田真二似の男がバイトに入ってきた。 この男は仕事をしなかった。 ほかのバイト連中は荷が着いた時、それがどんな荷物であろうとも、荷を全部運び出すまでそのトラックについていたのだが、その男は違った。 重い荷物や汚い荷物があると、すぐにほ…
それから一度こちらに帰ってきたのだが、その時は前とは別の運送会社でアルバイトをした。 その会社は、長距離便や大手企業の下請けなど、いろいろな業務を行っていた。 ぼくが回されたのは宅配のほうだった。 当時ぼくは免許を持っていなかったので、もちろ…
19歳から22歳にかけて、ぼくはアルバイトばかりしていた。 決まったバイトではなくて、そのつど場所も職種も違った。 19歳の時は、エッセイにも書いているが、警備のアルバイトだった。 その年の4月から7月中旬にかけて、ぼくは人生最大のスランプに…
食事を終え、女子を駅に送って行ったあとに、ぼくたち男性陣は中央高速道に乗った。 もう、午後10時を過ぎていた。 夜の中央高速道は、昼間とは一転して、神秘的な風景をかもし出していた。 車はほとんど通ってない。 昼間美しく輝いていた相模湖は、今に…
免停決定で意気消沈したテツローに代わって、アラカワという男が運転することになった。 河口湖ICで高速を降り、そこから富士山五合目に向かった。 天気は良く、気温は上昇、車内は和気あいあい、こんなムードでたどり着いた富士五合目は、寒かった。 みや…
ぼくは、過去五度富士に行ったことがある。 そのうち四度は、富士山五合目まで車で行った。 しかし残念ながら、山頂までは行ったことはない。 一度目は、高校1年の夏休みだった。 横須賀の叔父の所に遊びに行ったのだが、その時叔父の会社の社員旅行に参加…
この詩を書いたのは、23年前のちょうど今頃だった。 千葉に住んでいた友人と、富士山に遊びに行った時のものだ。 その前日、ぼくは千葉の友人宅に泊まった。 他の二人の友だちと、翌朝10時に代々木で待ち合わせていたので、友人宅を7時に出るつもりでい…
今日は休みだったのだが、特にすることもなく、昔の日記なんかを読んでいた。 まったく、ろくなことを書いてない。 『よくこんなくだらんこと考えていたなあ』と思えるものばかりだ。 これでは“古い日記”というコンテンツを作ることはできない。 それはそう…