「お食事にしますか、お風呂にしますか」
のどは渇いていたけれど、とりあえずはこの汗を流したい。それに、夕日が沈むのを鑑賞しながらの露天風呂は格別だ。ぼくたちは、旅の雑誌に載っていた露天風呂の風景を頭に浮かべていた。
「先にお風呂に入ります」
さっそく仲居さんはぼくたちを、お風呂に案内してくれた。
『えっ、おかしいな』、確かこの旅館の庭は南側に位置する。ところが仲居さんは北側に向かっている。北側だと道路沿いということになる。そんな所に露天風呂があるとは思えない。
「こちらです」と、仲居さんが風呂の扉を開けた。ぼくたちは目を疑った。そこは露天ではなく室内で、浴槽は何と家庭用の青いポリ製だ。
「一人しか湯船に浸かれんよ」と、風呂からあがったぼくたちは
後続隊にそう言った。
「えっ、露天風呂じゃないと?」
「あれを露天風呂とは言わんやろ」
「は?」
「とにかく入ればわかる」
風呂から戻ってきた彼らは無言だった。
「せめて食事くらいは」と思ったが甘かった。メニューは『カツオのたたき』だったのだが、赤みがなくどす黒い。しかもその部屋には、電器蚊取り機の臭いが漂っている。見ると、その照明に足の長い蚊がたかっている。
ぼくがカツオの皿にかけていたラップをはがした瞬間だった。一匹の足長蚊が力尽きたのか、ぼくの前に置いてあるカツオのたたきの上にポトリと落ちた・・・・。
二階の部屋に入ると、廊下の角にあるトイレからメタンガスと芳香剤が混ざった臭いが漏れてくる。さらにペチャペチャという気味の悪い音がする。
騙された思いと臭さと気味の悪さ、それまで行った旅館の中でも最低だった。
翌朝、ぼくたちは足早にその旅館を出たのだった。