そういえば、電話帳で思い出したのだが、研修がすんでしばらくたってからのこと。
午後4時半頃だったろうか。
デスクSが突然、「おい、しんた」とぼくを呼んだ。
「何ですか?」
「今度、熊本県の荒尾方面に取材に行くことになった。そこで、今から電話帳をもらってきてほしいんだが」
「どこにもらいに行くんですか?」
「荒尾」
「え、荒尾に今からですか?」
荒尾は、北九州とは全く逆の方向である。
その時間から荒尾に行くとなると、帰るのは何時になるかわからない。
しかも、荒尾になんて行ったこともない。
そこでぼくは、小さな抵抗をした。
「北九州とは、ぜんぜん逆方向じゃないですか」
「他に人がいないんだよ」
「もう電話局だってしまっているし」
「電話局じゃなくていいから」
「じゃあ、どこでもらうんですか?」
「公衆電話にあるだろう。そこで職業別のやつを、4,5冊もらってくればいいんだ」
「盗ってこいということですか?」
「ま、そういうことになる」
まさか、泥棒してこいというとは思わなかった。
渋々ぼくは荒尾に行った。
着いたのは、6時過ぎだった。
駅前の公衆電話の周りをウロウロしていたが、盗る気になれない。
しかたなく、駅から離れた場所に行くことにした。
しかし、今度は公衆電話がない。
しばらく歩いていくと、商店があった。
そこでぼくは、ジュースを飲むことにした。
「ごめんください」
「はーい」と言って出てきたのは、店のおばちゃんだった。
「ジュースください」
「はい」
ぼくがジュースを飲んでいると、おばちゃんは「今お帰りですか?」と聞いた。
「いや、まだ仕事中なんですよ」
「大変ですね。営業か何かですか?」
「いや、電話帳集めてるんです」
「え、電話帳を…?」
「今度仕事でこちらに来るもんですから、ちょっと必要になったもんで」
「もう電話局しまってるでしょ」
「はい」
「それは困ったねえ。いくついると?」
「4,5冊なんですけど」
「古いのでもいいと?」
「ええ、何でもいいです」
「ちょっと待ってて」
そう言って、おばちゃんは奥に入っていった。
しばらくしておばちゃんは、「やっぱりないねえ」と言いながら、出てきた。
手には一冊の電話帳を持っていた。
「これでよかったらあげる」
見ると2年前の電話帳だった。
「前はたくさんあったんだけど、この間捨てたもんね」
「もらっていいんですか?」
「いいよ。もう使うもんじゃないし」
荒尾に着いて1時間近く。
ようやく一冊を手に入れた。
店を出てから、再び公衆電話を探した。
辺りはだんだん暗くなっていく。
このまま公衆電話を探していたら、家に帰れなくなる。
そう思ったぼくは、駅に戻ることにした。
そして駅から会社に電話した。
電話にはデスクSが出た。
「しんたです。何とか一冊見つかったんですけど、このへんの公衆電話にはまともな電話帳が置いてありません」
「おお、そうか。お前が出たあとに思い出したんだけど、電話局に行けば全国の電話帳が手に入ったんだった」
「え…」
「もういい。帰ってこい」
そんなことは早く思い出してもらいたいものである。
しかし、まあ泥棒だけはせずにすんだ。
ぼくが会社に戻ったのは、午後9時を回っていた。
もちろん、デスクSはもう帰ったあとだった。