『ひとりぼっち』
気がついてみればいつもひとりぼっち
気楽につきあっていけそうな皆さんですがね
振り向いてみれば誰もいなくなってね
そんな毎日がぼくをつつんでる
寂しいというのが本音なんだけど
いつもひとりっきりで強がってみてね
ひとりぼっちなんですね、もともとが
そうそう、どこへ行ってみたってね
だから今だけは笑っていましょうよ
ね、今夜はとてもビールがおいしいんだから
ひとりぼっちの部屋で乾杯してね
青春、ああこれがぼくの青春でしょうよ
寂しげな街がぼくによく似合う
なんてかっこいいこと言っているけど
つまりひとりぼっちのいきがりでしてね
さよなら、また明日逢いましょうよ
気がついてみればいつもひとりぼっち
そんな毎日がぼくをつつんでる
最近、ここもお客さんがめっきり減り、寂しいサイトになったようだ。
ま、元々お客さんを呼ぼうというサイトではなかったんだし、そういう現状を気にせずに頑張ろうと思う。
しかし、考えてみれば、いつもぼくはこうなのだ。
上の詩の通り、気が付いてみたらいつもひとりぼっちなのだ。
泣き言でも負け惜しみでもなく、これがぼくの宿命なのだと思う。
19歳の頃に書いていた日記ノートのタイトルは『孤独と焦燥』であるが、それは、漠然とそういう宿命を感じ取っていたからだろう。
振り返ってみると、ぼくは小学生の頃から、いつもクラスの中心メンバーの一人だったが、そのわりには放課後や休日に、友人たちといっしょに遊んだ記憶というものをあまり持っていない。
いっしょに遊んでいたのは、ほとんど近所のガキである。
ま、別にぼくは除け者にされているわけではなかったので、気にはしなかったのだが、それでも休み明けの月曜日に「昨日○○達と、××に遊びに行ったっちゃ」などと聞くと、あまりいい気持ちはしなかった。
社会に出てからも然りである。
例えば、20代の趣味が中国思想や仏教思想だったというように、人とはちょっと違ったものに興味を持っていたため、同世代の話題について行けないことが多かった。
それでも、他人の趣味に合わせるようなことをしなかったので、そういう人たちとの溝を深めていった。
「しんた、あいつ変っとるけなぁ。考え方も年寄臭いし」
というのが、その当時のおおかたのぼくに対する印象だったようだ。
ところが、最近は逆にぼくの考え方が若返ってしまって、同世代の人たちとの溝が出来てしまっている。
そういう経験を繰り返していくうちに、いつしかぼくは、ひとりぼっちの宿命を持っているんだと思うようになった。
今の会社は中途採用であるが、どうも肝心の所で仲間はずれになっているような気がしている。
まあ、そういうことを気にしても何もならないことを知っているから、極力そのことは考えないようにしているのだが。