『淡いカルピス』
君は夢を見てればいいよ
柔らかな毛布にくるまって
羽のような想い出を抱いて
静かに眠っていればいいよ
考えることも何もない
ただ夜の目覚めに泣かないように
ぼくも意地悪なんかしないから
さあ静かに目を閉じて
美しい夕焼けが好きだったね
ああそうだ あの頃の歌を
あのときの歌を君に唄ってあげよう
淡い淡いカルピスの味だったね
小さなカクテルグラスにレモン浮かべて
透きとおったストローが白くなるのを
今君は想い出として夢見るがいい
こういう詩を読むと、大半の男性はよからぬ想像をするだろう。
もしぼくが作者でなかったとしたら、おそらくその大半の男性の部類に入るだろう。
何がよからぬのかは、この日記を読んでいる人の想像に任せることにしよう。
そういえば、以前井沢元彦さんがSAPIOで、朝日新聞の社説を国語の問題に出したら、大部分が不正解になるだろうと書いていた。
なぜなら、その文章とはまったく逆の見解を作者が述べているからだそうだ。
ある高名な作家の文章が、大学入試に出たことがある。
その作家が問題を解いたところ、半分も出来なかったという。
答合わせをやった彼は、「おれはこういう意図で、この文章を書いてない」と言ったそうである。
こういうように、一般の人の受け止め方と、作者の意図とはかなりの開きがある。
しかし、作家先生が言ったように、作者の意図はまったく違ったところにあるのだから、解釈に正しいとか、間違っているとかいうものはなく、あるのは感性の違いだけである。
だから、上の『淡いカルピス』を読んで、よからぬ受け止め方をした人も決して間違いではない。
そう、どう読もうと勝手なのだ。
では、作者であるぼくは、この詩に何を書いたのか?
実は、この詩は子守歌なのだ。
弱い自分が目を覚まさないように、という意味を込めた。
。
子守歌と聞いて、「やっぱりね」と思われた方もいるかもしれない。
「いや、そんなことはない」と思われた方もいるかもしれない。
しかし、さっきも言ったように、どちらの解釈も間違ってはいないのだ。
もし誰かが、「この詩は実にエッチな詩ですなあ」と言ってきても、けしてぼくは否定しないだろう。