「姿勢を正して、」
「黙想!」
「・・・」
「止め!」
「礼」
「ありがとうございました」
高校の頃、これを柔道の練習終了時にやっていた。
練習もろくすっぽやらない落ちこぼれクラブだったが、これだけは毎日欠かさなかった。
体を動かすことは嫌いだったが、大声を出すことは好きだった。
ただそれだけの理由からである。
柔道は「礼に始まり、礼に終わる」とよく言われる。
礼は神への帰依とともに、相手を尊ぶという意味がある。
他の格技もだいたいそのようである。
ぼくは柔道以外に、居合道をやっていた。
居合道というとなじみが薄いかもしれないが、いわゆる居合抜きである。
これは日本刀を抜く技術や、型の美しさが要求される武道である。
この居合道も、神前、師範、刀に対して、いちいち礼をしなければならない。
これを、練習や試技の前後にするのだ。
計6度も頭を下げるのである。
これだけで疲れたものである。
話を柔道に戻すと、始まりの礼は、
「縁あって、貴殿と合い対することとなり申した。元より、貴殿に対する恨み辛みは毛頭ござらん。拙者も技の限りを尽くして戦うゆえ、貴殿も技の限りを尽くされい。これが貴殿のためになることならば、これ幸い」
という礼である。
また終わりの礼は、
「お互い力の限りを尽くし、いい試合でござった。感謝たてまつる」
という礼である。
柔道だけではなく、ほとんどのスポーツはこの精神でやっているのではないだろうか。
さて、では礼と礼の間、つまり試合はどうなのか?
そこに礼の精神などはない、と言ってもよい。
例えば、『エースをねらえ』の岡ひろみのように、「あなたのためになりますように」などと思ってプレイをしている人間は、まずいないだろう。
試合というのは、是が非でも勝とうとする人、参加することに意義を持っている人、嫌々出ている人たちの絡み合いである。
是が非でも勝とうとする人は、「礼を重んじる、などと悠長なことを言っていると勝てない」と思っている。
いつも相手の意表をつくことばかりする。
せこくポイント稼ぎをする。
反則すれすれの汚い手も、時としてを使う。
つまりこういう人は、卑怯と言われようとも、要は勝てばいいと思っているのである。
礼の精神に反しているのは言うまでもない。
参加することに意義を持っている人。
「勝ち負けは関係ありません。試合を楽しんでいます」
うそをつけ!
いいところを見せようと、格好ばかりつけているじゃないか。
試合がパフォーマンスの場と化しているじゃないか。。
投げられるとカッコ悪いと、逃げてばかりいるのがありありとわかる。
そういう不埒な精神に、礼の精神を見ることは出来ない。
嫌々試合に出ている人。
例えば、ぼくのいた落ちこぼれクラブにそういう人が多い。
「わざわざ日曜日に、こんなことせんでもいいやろ。あの番組が見れんやんか」
「早く負けて、さっさと帰ろ」
などと思っている。
ここにも礼の精神は見えない。
試合とは、そういう人間たちの絡み合いである。
ドロドロした人間ドラマそのものなのである。
しかし、そのドラマも、試合が終了すると、礼のおかげで、美しくさわやかなものに変わってくるから不思議である。
ドロドロとした人間ドラマといえば、この日記の世界とて同じこと。
この『礼』を利用して、何かやれないかと思っている。
いつも礼で始まり、礼で終わるようにして、中身のほうは悪態の限りを尽くして書くのだ。
非難・中傷・アダルト、何でもありで、実名をじゃんじゃん出していく、というのはどうだろうか。
最後は礼で終わるから、読後感は美しくさわやかなものになるだろう。
今日みたいにネタのない日は、『礼』だけにしておくか。
礼!