明後日は「成人の日」じゃないか。
ぼくはそのことを忘れて、あいかわらず1月15日だとばかり思っていた。
そうだった、1月の第2月曜日に替わったのだった。
ぼくの成人式は昭和53年、今年と同じ午年だった。
ここ数年、北九州市の成人式は、堅苦しい式典をやめ、新成人にスペースワールドを無料開放して、「適当にやってくれ」ということになっている。
が、当時は旧5市ごとに会場を設け式典をやっていた。
ぼくはその頃、長い浪人時代の真っ最中で、友達に会うことさえも気が引けていた。
その上、そんな堅苦しい式典の場に行くというのは、苦痛以外の何ものでもなかった。
親は朝からしきりに「式に行ってこい」と言っていたのだが、「誰があんなところにいくか!」とぼくは拒んだ。
「じゃあ、せめて親戚だけでも回って来い」と言われ、しぶしぶ慣れないスーツを着て親戚回りをした。
途中、道行く人たちから指を指され、「あっ成人式だ」などと言われて恥ずかしい思いをしたものだ。
親戚に着くと、おばちゃんが「待ってました」とばかりに写真を撮り始めた。
「そちらを向くな」とか「もっと嬉しそうにしろ」とか、いろいろ注文をつけてくる。
ぼくが「もういいやん」と言うと、「何を言いよるんね。今日は記念日やないね。こんなことは一生に一度しかないんよ」と文句を言いながら撮りまくっている。
いい加減うんざりしたが、ご祝儀をくれたので、「まあ、いいか」という気分になりポーズをとった。
帰り際に「写真が出来たら連絡するけ、取りにおいで」と言っていた。
しかし、その後親戚からの連絡はなかった。
それもそのはず、何とおばちゃん、フィルムを入れ忘れていたのだ。
文句を言いながらフィルムなしのカメラのシャッターを押し続ける伯母と、うんざりしながらも笑顔でポーズをとり続ける甥、その間抜けな光景を思い出すと、今でも笑ってしまう。
その日の午後、年末までいっしょにバイトをやっていた連中から、「お前の成人を祝ってやるから来い」と電話があった。
黒崎で待ち合わせ、そこから車である人の家に行った。
その家に、知ってる人知らない人、合わせて十数名の人が集まり、豪華な料理でぼくを祝ってくれた。
「今日から大っぴらに飲めるのう」と何杯も酒を飲まされた。
かなり酔いが回ってきたところで、「今日はお前の歌を聴いてやるから、好きなだけ歌え」と言われた。
調子に乗って、2時間近くも歌いまくった。
酔いも手伝って、何を歌っているのかわからなかったが、とにかく大声を張り上げ歌っていた。
最後には声が枯れてしまい、気分が悪くなった。
さんざん飲み、さんざん歌って、ぼくの成人式は終わった。
そうか、あれからもう24年経つのか。
いったい何やってきたんだろう?
あの頃志した道とは、まったく違った道を歩んでいる。
まさか24年後に、こんなに頭が真っ白になるなんて思ってもみなかった。
こうも物忘れがひどくなんて思ってもみなかった。
携帯電話にハマッているなんて思ってもみなかった。
2フィンガーでパソコンをいじくっているなんて思ってもみなかった。
こんなくだらん思い出話を披露しているなんて思ってもみなかった。