頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう!

延命十句観音経

延命十句観音経霊験記(番外編)

十数年前の話だ。
ぼくの部署にいた女性の派遣社員が、仕事の合間に般若心経の本を読んでいた。
ぼくが「般若心経なんか読んで、どうかしたと?」と聞くと、その女性は「今、必死で覚えてるんですよ」と言う。
「何でまた般若心経なんか覚えるんね?」
「般若心経を唱えると、願い事が叶うと聞いたもんですから」
「ふーん」
「でも、意味のない言葉を覚えるのって難しいですね」
「いや、意味はなくはないんやけどね」
「へえ、意味なんてあるんですか」
「うん、あるよ。でも、願掛けには必要のないことやけ、別に読む必要もないけどね」
「しかし、私ってどうしてこんなに物覚えが悪いんだろう。一週間くらい前から取り組んでるんだけど、まだ二行も覚えてないんですよ」
「一週間で二行か…。もしかしたら、そのお経はあんたには向いてないんかもしれんね」
「えっ、お経に向き不向きとかあるんですか?」
「あるよ。学校の勉強でも好き嫌いがあるやろ。あれと同じ。好きな学科は何もしなくても頭に入ってくるやん」
「ああ、そうか」
「あんたに向いているお経なら、すんなりと覚えられると思うんやけどね。今その覚えることが障りになっとるんやけ、それは不向きだと思うよ」
「そうですか。じゃあ、私にはどんなお経が合ってるんですか?」
「そんなことわかるわけないやん」
「そうですよね。それならもっと短いお経にしようかなあ。何かないですか?」
「念仏とかお題目じゃだめなんね?」
「何か年寄り臭くて、カッコ悪いじゃないですか。お経がいいんですよ」
「お経だってカッコいいとは思えんけど…。そうか、短いお経か。ないことはないけど」
「えっ、あるんですか?」

そこでぼくは、紙に延命十句観音経を書いて、彼女に渡した。
「これ何ですか?」
「お経」
「えっ、これお経なんですか?」
「うん」
「たったこれだけですか?」
「たったこれだけ」
「効くんですか?」
「おれは効いたよ」
「本当ですか?」
「うん」
「じゃあ、このお経を覚えよう」
ということで、ぼくは彼女に読み方を教えてやった。

翌日のことだった。
彼女はぼくを見つけると、「しんたさーん」と言って走ってきた。
「どうしたと?」
「いや、昨日のお経、私あれを覚えることにします」
「昨日、そう言ったやないね」
「言ったけど、半信半疑だったんですよ。向き不向きとかいう話を聞いていたし…」
「それがまた、どうしてそうなったんね?」
「あれから家に帰って、紙に書いてもらったのを読んでいたんですよ。その時ふと、床の間のほうから誰かがこちらを見ているような気がしたんです。それで床の間のほうを見てみたんだけど、誰もいない。気のせいかと思って、またその紙を読んでいた。ところが、まだ誰かがこちらを見ているような気がするんですよ」
「何それ、霊でもおるんやないと」
「いや、そんなのじゃなかったんです。実は床の間に掛け軸がかかっているんですけど、こちらを見ているような気配はそこからしていたんですよ」
「何の掛け軸?」
「書なんですよ」
「漢詩か何か?」
「今までそう思ってたんです。それで気にもとめなかったんだけど、昨日なぜか気になって読んでみたんですよ。そしたら、何とそこに書いていたのは、昨日しんたさんに書いてもらったお経だったんですよ」
「へー」
「その時、このお経は私に合ってると思ったんですよ。それで真剣に覚えようと思って」
「縁があったんやね」
「そうですね」
そう言って彼女は喜んでいた。

その後、彼女は他の会社に移ったため、願が成就したかどうかはわからないままである。
だが、彼女はおそらく、延命十句観音経を一生持って行くだろう。
これも一つの霊験である。



延命十句観音経霊験記(5)

それ以来、ぼくは鬱状態になることはなかった。
おそらくこれからも、そういう状態にはなることはないだろう。
それは、延命十句観音経のおかげで、深く悩みに囚われたり、縛られたりすることがなくなったからである。
というより、悩みを持った時、ぼくはこの経を唱えることにしたのだ。
すると、同じように霊験は現れる。
例のヘソの下が、何かすっきりした気分になるのだ。
そうなるとしめたもので、すでにその悩みは消えているのである。

ある時には知恵をも与えてくれる。
困った問題が起きた時、自分の頭であれこれと考えて解決しようとすると、失敗することが多いものだ。
しかし、いったんこの経にすべてを預けてしまうと、意外なところから解決法が見えてくる。
それがまた絶妙な解決法で、問題のほとんどはそれで解決してしまう。
まさに仏の知恵というものだろう。

よくよく考えてみると、ぼくはこの経と縁があったのだと思う。
きっと鬱状態というのは、その経に入る方便として、仏が与え賜うたものなのだろう。
だからぼくは崩れなかったのだ。
そして、その後も霊験を見続けることが出来たのだ。
今はそれが長いお経でなくてよかった、と感謝するばかりである。
面倒くさがりのぼくのことだから、仮に長いお経だったら、きっとすぐに飽きていたことだろう。
鬱状態から解放されたあとに、一度だけ、観音経(妙法華経観世音菩薩普門品)に挑戦したことがある。
が、「念彼観音力」とか「福寿海無量」といった有名な言葉は覚えたものの、お経自体は覚えられず挫折してしまった。

ところで、冒頭でぼくが唱えることが出来るお経は二つあって、その一つは般若心経だと書いた。
その般若心経は、十句経を覚え鬱状態から脱出した後、そう観音経に挑戦していた頃に、勢いで覚えたものである。
この経も霊験あらたかで、霊障に遭った時にこの経を唱え、何度も救われたことがある。
だがこの経は、それほどぼくとは縁がないように思えるのだ。
なぜなら、このお経を唱えると、いまだにとちってしまうからだ。
やはり、ぼくには延命十句観音経しかないのである。

さて、タイトルにわざわざ『霊験記』などと謳っているので、何らかの奇跡を期待した人もいるかもしれない。
そういう人は、これまでの話を読んで、拍子抜けしたにちがいない。
中には「ただ単に、精神状態が元に戻っただけの話じゃないか」と思っている人もいるだろう。
しかし、はたからどう思われようとも、あの日のぼくにとって、あれは確かに奇跡だったのだ。
今もその思いは強く持っている。
だからこそ信じられるのだ。


 - 延命十句観音経霊験記 完 -



延命十句観音経霊験記(4)

しかし、それで治ったわけではなかった。
その夕方にはまた鬱状態が訪れた。
翌日もそういう状況だった。
それからしばらく、霊験が現れ、また鬱状態が訪れるという、一進一退の状況が続いた。
それでも諦めずに、ぼくは延命十句観音経を唱え続けた。
すると、およそ2週間ほど経ったある日、二度目の霊験が訪れたのだ。

場所は帰りの電車の中だった。
その日は仕事の関係で遅くなってしまい、最終の何本か前の電車で帰ることになった。
ちょうど快速が出たばかりで、ぼくの乗った各駅停車は、乗客がまばらだった。
そのためゆっくり座って帰ることが出来たのだが、あいにくその日は本を忘れてきていて、何もすることがない。
そこで、この時とばかり、目を閉じて静かに口の中でお経を唱えることにした。
そうやって、いくつかの駅を過ぎた時だった。
どこからともなく、ぼくが口の中で唱えているお経が聞こえてきたのだ。

低い男性の声だった。
ぼくは、ハッとして周りを見回した。
しかし、ぼくの周りにはお経を唱えている人はいない。
そこで立ち上がってその車両の隅々まで見回してみたが、しゃべっているのは女性客ばかりで、男性のほとんどは眠っている。
そうやって、ぼくが落ち着きなくキョロキョロやっている間も、そのお経の声は聞こえていたのだった。

その時は気味が悪いと思っていたのだが、家に帰ってよくよく考えてみると、これも霊験なのだという結論に達した。
「ということは、このお経の力が、確実にぼくを回復の方向に向かわせているのだ」
そう思うことにした。

そして、それから10日ほどして、三度目の霊験が現れたのだった。
それは仕事中のことだった。
その日は朝からヘソの下が何かムズムズしていた。
ところが、仕事中にそのムズムズ感は火照りに変わった。
別に下腹に熱が出たわけではなく、ヘソの下のある部分が火照っていただけだ。
そのため、最初は「おかしいな」と思いながらも、気にしないようにしていた。
しかし、午後になっても火照りはおさまらない。
「何か変な病気にでもかかったのかなあ」
と思った時だった。
ぼくはあることに気がついた。
その日は朝から鬱ではないのだ。
「もしかして治ったんかなあ」と思い、あることを試してみた。
ぼくはある悩みに囚われたり、縛られたりして、鬱状態になっていた。
もし治っているとすれば、その悩みに囚われたり、縛られたりすることはない、と思ったわけである。

さっそく悩んでみることにした。
すると、不思議な現象が起きた。
その悩みが、頭の中からストンと例のヘソ下の火照りのところに落ちてきて、燃えてしまったのだ。
燃え尽きた悩みのあとには、燃えかすだけが残っていた。
つまり、悩みという記憶だけが残っているということである。
何度やっても、その都度悩みはヘソの下で燃やされる。
およそ一時間後、ようやく疑い深いぼくの心は、鬱状態から脱出を認めた。
それまでがひどい状態だっただけに、その時の喜びといったらなかった。



延命十句観音経霊験記(3)

その本には、この短いお経を唱えて起きた奇跡の実例が書いてあった。
が、奇跡とはいうものの、何も突飛なことばかり書いているわけではない。
精神的な病から救われたとか、ものの見方が変わって幸福を得たような話も書いてある。
いや、どちらかというと、眉唾物の話より、そちらの方に重点が置かれているような気がする。

そこにはこの経の実践法なども書かれているのだが、このお経の真理を追究しろなどといった難しいことは一つも書いていない。
書いているのは、ただ不断にこの経を唱えろということだけである。

その宗旨が知りたいという人や宗教マニア以外、宗教書を好んで手にする人などほとんどいないだろう。
もしいるとしたら、それはかつてのぼくのように、精神的に追いつめられている人だけではないのだろうか。
そういう人は藁をもつかむ思いでその本を手にしたはずだから、当然物事を論理的に追求する余裕など持ってないだろう。
もちろん、白隠禅師もそれを見越していた。
それゆえに、不断にこの経を唱えろとだけ言ったのだと思う。

とにかく、2ヶ月も鬱状態が続き、いよいよ追いつめられた感のある、ぼくの精神状態である。
それまで自分なりにいろいろ手を尽くしてみたが、改善のきっかけすら見えてこない。
そんな時に、このお経が目の前に現れたのだ。
先に、ページの折れた部分が矢印に見えて、その先にこのお経があったと書いたが、そのこと自体、妙に霊験めいた気がする。
「今はこれを信じるしかない」
そう思うに至ったぼくは、このお経に賭けることにした。
ということで、その日から十句経三昧の生活が始まった。

その翌日、早くも最初の霊験が訪れた。
仕事中にその経を口の中で唱えていると、急に眠くなってきた。
よくある睡魔というものではない。
これ以上目を開けていられない状態になったのだ。
仕方がないので、ぼくは休憩室に行き、少し横になることにした。
目が覚めてみると、頭の中がすっきりしている。
けっこう長く寝たような感じがしていたのだが、時計を見ると、まだ10分ほどしか経過していない。
これで充分だと思い、ぼくはまた仕事場に戻った。
それからしばらくして、あることに気づいた。
精神状態が、鬱ではないのだ。
といって、躁の状態でもない。
以前のような、普通の精神状態に戻っているのだ。

ちょっと寝たことがよかったのだろう。
そのことがあって、「もしかしたら、ぼくの鬱状態というのは、多分に寝不足が影響しているのではないか」と、ぼくはその時思った。
「きっと、十句経を唱えたことで、本来の自分が目覚め、その時点で一番必要なことをぼくにさせたのだ」
そう思うことにした。



延命十句観音経霊験記(2)

そういう状態が2ヶ月ほど続いたある日、ようやく打開のきっかけをつかんだ。
たまたま寄った本屋で、ある新刊の本を手に取った時だった。
ふと手が滑ってしまい、その本を落としてしまった。
慌てて本を拾い上げると、あるページに折れ目が入っているのが見えた。
「まずいな」と思いながら、そのページを開いてみると、ちょうど折れた先が矢印のようになって、ある文章を指していた。
そこを見てみると、そこには“延命十句観音経”という、短いお経が書いてあった。

“延命十句観音経”、初めて聞く名前である。
どんなお経だろうかと説明を読んでみると、そこには『非常に霊験あらたかなお経で、古今この経に救われた人は数知れず』などと書いてあった。
うさんくさい宗教書にありがちな表現である。
ところが、よくよくそれを読んでみると、その経を広めたのは、臨済宗中興の祖と言われる、あの白隠禅師というのだ。
「嘘だろう」と思い、その本を一端書棚に戻し、宗教書のコーナーに行ってみると、そこに『延命十句観音経霊験記』なる本が置かれていた。
作者の欄を見てみると、確かに『白隠禅師』と書かれている。
疑い深いぼくは、その経について語っている本を探しだして読んでみると、やはり白隠禅師が広めたと書いてあった。

「白隠が『霊験あり』と言うのなら、嘘じゃないだろう」と思ったぼくは、先ほど落とした本と、『延命十句観音経霊験記』と、それを解説している本と、計3冊の本を買って帰った。
観世音 南無仏 与仏有因 与仏有縁 仏法僧縁 常楽我浄 朝念観世音 暮念観世音 念念従心起 念念不離心
延命十句観音経というのは、たったこれだけの短いお経である。
短いといえば般若心経も短いが、このお経はさらに短い。
解説書には、この短いお経の中に仏教の真理があるのだと書いてあった。
しかし、その時のぼくに、真理を追究する余裕などない。
ということで、解説書は飛ばして、『延命十句観音経霊験記』のほうを読むことにした。



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