頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう!

履歴書

履歴書 その13

これからのことは、エッセイの『長い浪人時代』に詳しく書いているので、簡単に触れるだけにする。

1976年3月、大学入試、ことごとく落とされる。

1976年4月、K予備校入学。
この年、中原中也を知る。

1977年。
3月、大学入試、再びことごとく落とされる。

4月、もう受験勉強は嫌だモードに入る。
祖父死去。

5月、就職活動を行うも、26回落とされてしまう。
外に出ることが恐ろしくなり、約2ヶ月の引きこもり生活が始まる。

7月、芦屋ボートの警備員となる。

9月、中国展のアルバイトに採用される。
一つの転機を迎える。

11月、北九州総合体育館で行われる全日本プロレスのリング作りにかり出される。
その後、運送会社でアルバイトを始める。

12月、アルバイト先で好きになった人に告白するも、「友だちなら」という条件を付けられ、結局あきらめる。

その頃、バイト仲間とよく飲みに行っていた。
その時行きつけのスナックで知り合った人が、阪急ブレーブスに入団することになった。
その激励会の席で、ぼくはガンガン酒を飲み、ガンガン歌いまくった。
ところが、あまりに張り切りすぎたせいで、その後気分が悪くなり、その人が挨拶をしている最中に吐いてしまった。
後のことは、まったく覚えていない。
ただ、翌日バイト仲間からさんざん文句を言われたのは、しっかり覚えている。

1978年。
1月、バイト仲間に成人を祝ってもらう。

2月、友人と漬け物の家宅販売のアルバイトを始める。
1週間ばかり続けたが、その店が閉店するということでやめさせられてしまう。
最後の日のことだった。
小雪の舞う中、行く宛もなく、友人と二人でさまよっていた。
どこに行こうかと迷ったあげく、高校時代に好きだった、というよりも、まだ好きだった人の家に行くことにした。
まあ、買ってもらえなくても、彼女の近況を知ることぐらいは出来るだろうし、あわよくば彼女と再会出来るかもしれない。
そういう期待をもって、彼女の家のドアを叩いた。
が、彼女は大学に行っているということで不在だった。
とりあえず、ぼくは彼女のお母さんに、漬け物を勧めた。
すると、お母さんはその味を気に入ってくれて、他の家も紹介してくれた。
さらに、ぼくたちに「腹が減っているだろう」と言って、食事を出してくれた。

1時間ほどそこにいた。
ぼくとしては、もう少しそこにいて彼女の帰りを待ちたかったのだが、次の仕事があったので、彼女の家を後にした。
その日は、遅くなった。
家に帰り着いたのは、9時を過ぎていた。
帰ってから、さっそく彼女家に電話をかけた。
2年ぶりに聞く彼女の声だった。
夢心地で、どんな話をしたのかも忘れてしまった。
雪は相変わらず降っている。
が、ぼくの気持ちは暖かかった。
その日ぼくはひとつの詩を作った。

 『春の情』

 夜が来て 星がともる
 夢から覚めた 月も色づく
 なぜか人は 急ぎ足で
 行きすぎる

 道ばたには 小さな花が
 眠たげに 目を閉じる
 夜を忘れた鳥が 家を探し
 飛んで行く

  目の前が急に 明るくなって
  夜もまるで うそな公園に
  君と二人 これからずっと
  暮らしていこうよ

 風が吹いて 君は舞う
 春に浮かれた 蝶になって
 ぼくもいっしょに 羽を広げ
 飛んで行こう

これが、東京に出る前の最後の詩となった。

1978年4月、東京に出る。

 (履歴書第一部 完)



履歴書 その12

ところで、ぼくの抱いていた「さて、どこで会ったんだろう?」の疑問だが、何年か後にやっと思い出した。
それは、夢の中で会ったのだ。
見ず知らずの人の夢を見るということは、その人がぼくの理想の女性だったということになる。
それほど、ぼくにとって大きな人だったのだ。
と、思っていた。
しかし、さらに後年、確かに会っていることを思い出した。
それは中学1年の時だった。
ぼくが一時期バレー部に入っていたということを前に書いたが、その頃のことだ。
5月に、バレーボールの区内大会があり、ぼくたち1年も応援に行くことになった。
その時、その会場の隣で、彼女の所属していたクラブの試合をやっていた。
ぼくは興味本位でその試合を眺めていたのだが、そこにある中学の1年生の団体がいた。
その頃のぼくは、知らない人にも声をかける人間だったので、当然彼女達にも声をかけた。
友人と二人で、ギャグをかましたり、悪態をついたりしたのを覚えている。
その中学が彼女のいた中学だった。
ということは、その中に彼女もいたことになる。
そのことを思い出したのは、30代の後半だった。
しかし、今のところ、それを確認することは出来ない。

ぼくの高校時代は、彼女に始まり、彼女に終わったと言える。
詩作や作曲を始めたのも、彼女がいたからであり、それが高じてミュージシャンを目指し、ありふれた人生を送ることを否定したのも、広い目でみれば彼女がいたからである。
また、『頑張る40代!』では決して触れることがないと思われる、今なお続くぼくの波瀾含みの人生も、「彼女がいたから」ということの延長なのかもしれない。
が、ぼくはそのことで、人生を失敗したなどとは思っていない。
多少波瀾万丈ながらも、いい人生を送っていると思っている。
その意味でも、彼女の存在は大きかったと言える。
もし彼女という存在がなかったら、平々凡々としたありふれた人生を送っていたことだろう。
そして、そのありふれた人生の中に価値観を見いだしていたかもしれない。
しかし、もしそうであったとすれば、このホームページの存在はなかったと思う。

と、高校時代の総括が出来たところで、そろそろ高校を卒業しようと思っているのだが、「2年や3年の時はどうだったんだ?」という方もいると思うので、簡単に触れておくことにする。

1974年、高校2年。
この時代のことは、さんざん書いているので、ここでは割愛する。
何とか人に聞かせることの出来る、オリジナル曲を作ったのがこの頃である。
後にバンドを作るのだが、そのバンドでやった曲のほとんどが、高校2年の時に作ったものだった。

1975年、高校3年。
2年の終業式の日に、これで高校生活が終わったと思った。
高校に入った時から、ぼくは『高校3年生というのは、高校生ではなく受験生だ』と思っていた。
そういう考えを持っていたために、高校2年までに高校生活を楽しむだけ楽しんだ。
その結果、3年の時は抜け殻になっていた。
クラスに溶け込もうとせず、一人孤立していた。
2年までのぼくを知る人間は、その変化に驚いていたようで、「何で2年の時みたいにはしゃがんとか?」などと言ってきたが、ぼくは無視していた。

さて、孤立した目で周りを見渡すと、実によく人の心が見えてくる。
誰もが不安だということが、手に取るようにわかった。
馬鹿やっている者も、真面目ぶっている者も、みんな不安の固まりだ。
ちょっとした会話でさえ、すべて空元気に聞こえる。
もううんざりだった。
結局、うんざり状態のまま、ぼくは高校を卒業する。

1976年3月、高校卒業。



履歴書 その11

ギターについては、今年の1月に詳しく書いているので、ここでは割愛する。

さて、話はさかのぼるが、この年の4月、例の友人が自殺した日のことだった。
ぼくのクラスに、どこかで見たことのある女子生徒がいた。
『どこかで会ったことがあるんだけど、さて、どこで会ったんだろう?』
そんなことを考えながら、その子のことを何気なく見ていた。
結構活発な子だった。
それに目立つ。
と言うより輝いている。
ぼくの中学校にはいなかったタイプの子だった。
しかし、何か懐かしい感じがする。
『確かに以前会ったことがある。さて、どこで会ったんだろう?』
そのことを聞いてみようかとも思った。
が、聞かなかった。
ぼくは女の子と話すことには抵抗を持たないたちなのだが、その時はどういうわけか躊躇してしまったのだ。

『さて、どこで会ったんだろう?』と思いながらバスに乗り、『さて、どこで会ったんだろう』と思いながら家に着いたところで、友だち自殺の通報があったのだ。
その後もことあるたびに『さて、どこで会ったんだろうか?』と考えてみたのだが、その答はでなかった。
しかし、そのことを考えていくうちに、だんだん彼女から心が離れなくなっていった。

ぼくがはっきりその子のことを「好きだ」と思ったのは、その年の11月だった。
ところが、「好き」と自覚した時に、友人からショッキングなことを聞いた。
「しんた、あの子のことどう思う?」
ぼくは、自分の気持ちを隠すのに必死だった。
「うーん、どっちかと言えば、かわいい方やないんかねえ」
「そうやろ」
「それがどうしたん?」
「おれ、あの子とつき合うことにしたっちゃ」
「えっ!? いつ言うたんね?」
「昨日やけど」
「ふーん・・・」
もちろんその時、友人はぼくの落胆に気づかなかっただろう。

ぼくはその頃右手の小指の骨を折り、それまで毎日行っていたクラブをさぼるようになっていた。
そのため学校が終わるとすぐに帰っていたのだが、帰りはいつもその友人といっしょだった。
その話も、帰る時に聞かされたのだ。
ぼくは目の前が真っ暗になった。
友人の前では努めて明るく振る舞ったのだが、一人になった時、そのことがぼくに重くのしかかった。
「もうおれにはギターしかない」
そう思って半ばムキになってギターの練習をした。

それから毎日、友人から「昨日電話したら、話が長くなってねえ」とか「日曜日に二人で映画に行った」などというのろけ話を聞かされたものだった。
ところが、それから1ヶ月ほどして、友人が「しんた、おれあいつと別れた」と言ってきた。
「どうしたん?」
「彼女が『別れよう』と言ってきた」
「何かあったんね?」
「クラブ活動に打ち込みたいらしい」
「別に、クラブは関係ないやろ?」
「いや、彼女は気が散るらしい」
「ふーん」
ぼくは素っ気ない返事をしながら、内心『これでおれにも目が出てきた』と喜んでいた。
しかし、その喜びは、友人の言った次の言葉で砕け散ることになる。
「で、彼女、高校を卒業するまで誰ともつきあわんと、おれに約束した」
「・・・。じゃあ、高校卒業したら、おまえとつきあうということ?」
「いや、そういう意味じゃないけど」

ところが友人の話は意外な方向に展開する。
「ところで、おれ、本当はあいつより好きな人がおるっちゃ」
「えっ!?」
「実は、あの子は二番目に好きな子やったんよね。本命にはなかなか言い出しきらんでね。で、とりあえず、あの子と付き合うことにしたんよ」
ぼくは言葉が出なかった。
ふざけるな、である。
ぼくは彼女と出会って半年の間、あの子のことをどう思っているのかと、自分の心に問いかけてきた。
そして最終的に出た答が、「好き」だったのだ。
ぼくは一途な恋をする人間なので、いつも『二番目に好き』な人など存在しない。
好きな人は一人である。
いつもその人のことしか思ってない。
それなのにこいつは、である。

やけになったぼくは、その後「彼女が欲しい」が口癖になる。
新しい出会いを探して、その子のことを忘れようとしたのだ。
しかし、その子以上の女性に出会うことはなかった。
その後、8年間も。

8年後に、ぼくはその子を諦めることになる。
それは、彼女が結婚したからだ。
高校時代から書き始めた詩、高校時代から作ってきた歌、それらはすべて、ぼくの彼女への想いであった。
だから、たとえそれが拙い作品だとしても、たとえそれが気障な作品だとしても、その時までは、それらすべてが現実だった。
しかし、彼女の結婚を聞いた時、そういうものがすべて、過去のものになってしまった。



履歴書 その10

1973年11月、またもや事件が起きた。
柔道部に出入りしていた3年の先輩が、若戸大橋から飛び降り自殺を図ったのだ。
そのことは新聞にも載った。
見出しは『文学青年、若戸大橋から飛び降り自殺』だった。
ぼくは知らなかったが、先輩はよく哲学書を読んでいたということだった。
また、詩を書いていたらしく、新聞にはその詩も掲載された。
ぼくには結構友だちがいるように見えたが、先輩は孤独だったらしい。
先輩からは「1年で知っとるのは、お前しかおらん」と言って、よくかわいがってもらっていたので、その分ショックが大きく、その後しばらく落ち込んでいた。
そのため、クラスの女の子から「しんた君も自殺するんやないんね」と言われたこともある。
その頃のぼくはフロイトなどを読み、詩を書いていたということもあって、彼女はそう思ったのだろう。

さらに訃報は続いた。
2年の人が死んだのだ。
死因は、やはり自殺だった。
頭からビニールをかぶり、そこにガス管を差し込んで死んだらしい。
柔道部の先輩に、その人と同じ中学の出身の人がいた。
通夜に行ったらしいが、「あいつの彼女が来とってねえ。泣き崩れて、見るに忍びなかった」と言っていた。
ぼくは、その人のことを知らなかったので、あまり深い関心を持たなかったが、またもや死について考えるようになった。

それから数ヶ月後、中学の同級生が自殺したとの情報が入った。
その同級生とは、中学1年の頃、何度か遊んだことがあるが、それほど深いつき合いはなかった。
なぜ死んだのかは知らない。
おそらく孤独感にさいなまれてのことではなかったのだろうか。
その頃、『孤独』という名の下に死んでいく若者が多くいた。
それは、一種の流行のようなものだった。

ぼくは昔から自分のことを、孤独な人間だと思っている。
その自覚を根底に行動していると言っても過言ではない。
人と同じ行動をとることが嫌いだし、人と徒党を組むことを好まない。
そのために寂しい思いをしたこともある。
深い谷間に落とされた気持ちになったこともある。
そんなぼくが自殺に走らなかったのには理由がある。
それは、孤独であることを楽しんでいたからだ。
まあ、死に至るほどの孤独感を味わっていない、とも言えるのかもしれない。
しかし、死に至る孤独感がどのくらいのものなのかは知らないが。

1973年11月、ギター入手。
2学期に入ってからのぼくは、「ギターが欲しい」が口癖だった。
いろんな人に「バイトしてギター買う」と言っていた。
そのいろんな人の中の一人にMちゃんという女性がいた。
彼女はぼくと違う中学の出身なのに、どういうわけか、ぼくの家庭環境をよく知っていた。
理由を尋ねてみると、ぼくの従姉がMちゃんの家で働いているとのことだった。
Mちゃんの家は花屋をやっていた。
そこで、いとこがあることないことを言っていたらしい。
当然、Mちゃんを通じて、ぼくの情報も逐一従姉の耳に入っていた。
もちろんギターの件も。
そして、そのことは伯父の耳にも入った。
伯父は父の兄で、高校生がアルバイトをしたら不良になると思っている古い考えの人だった。
ある日、伯父から母に電話があった。
「しんたがギターほしがっとるそうだが、こちらでギターを用意するから、絶対バイトなんかさせんで欲しい」という内容だった。
それから1週間ほどして、伯父の元からギターが届いた。
ここからぼくの人生が変わる。



履歴書 その9

1973年5月、挫傷。
ぼくが柔道部に所属していたのは、この日記で何度も書いている。
1年の前半、それは真面目にクラブに通ったものだった。
5月、練習中に足の親指をねじってしまい、一時は人の肩につかまらなければ歩くことの出来ない状態になった。
それでもクラブには休まずに通い、練習に励んでいた。
人間一生懸命になれば痛みを忘れるものだということを、その時知った。
しかし、そのせいで完治するのに3ヶ月を要してしまった。

1973年9月、ドブさらい。
夏休みが終わり、運動会の準備に追われている頃だった。
ぼくのクラスは、1年の校舎につながる渡り廊下の掃除を任されていた。
その渡り廊下の横に小さな溝があった。
その溝の中程が出入口と重なっていたため、その部分だけ溝に落ち込まないように長さ2メートルほどの蓋がかぶせてあった。
その蓋が弊害を生んだ。
その蓋の中、つまりトンネル部分に何かが詰まってしまい、そこだけ水が流れなかった。
そのために溜まった水が腐り、あたりに悪臭を放っていた。
蓋は開かないし、その中に詰まっているものもなかなか取れないので、掃除当番もそこだけは掃除をしなかった。

ある日、そこの掃除当番がそのトンネルの周りに集まっていた。
ぼくが「どうしたんか?」と聞くと、当番は「水が流れんけ、ちょっと覗いてみたら、中にゴミが一杯詰まっとるんよ。少し取ってみたんやけど、その奥に何か硬いものが当たって、それ以上取れんっちゃ」と言った。
「ふーん」と、ぼくは素っ気ない返事をし、そこから立ち去ろうとした時だった。
誰かが「これを取り除くのは不可能やろ」と言った。
その『不可能』という言葉に、ぼくの血が騒いだ。
「ちょっと、見せて」とその中を覗いてみると、たくさんのゴミが詰まっていた。
「地道にこれを取ればいいやん」
「おれたちも何度か挑戦したけど、無理っちゃ」
「じゃあ、おれがやってみる」
と、ぼくは竹の棒を持ってきて、溝掃除を始めた。
なるほどけっこうたくさんのゴミが詰まっている。
パンの袋や、紙くずや、中には人形なんかも入っていた。
その日、けっこう取り除いたものの、まだ20センチ程度しか掘り進めなかった。
「明日する」
そう言って、ぼくはクラブに行った。

翌日、掃除の時間に、ぼくはまたドブさらいを始めた。
その日も紙くずや木ぎれの除去に終わった。
次の日から、休み時間まで利用してドブさらいをするようになった。
そして次の日、50センチほど掘り進んだ時、ようやくそのトンネルに詰まっているものの実体をつかんだ。
どこからともなく木の根が這ってきて、そのトンネルの中ではびこっていたのだ。
ぼくは唖然とした。
なるほどこれは不可能である。
木の根の除去は困難を極めた。
少しずつ、根っこの先は取れているのだが、実体はビクともしない。
引いてもだめだから、今度は逆から棒を突っ込んで、押し出す方法をとった。
しかし、動かない。
いよいよ作業に行き詰まってしまった。
そんな時、ぼくがそこの掃除をしていることを知ったクラブの先輩が、「お前、あんなところを掃除しよるんか。おれ、1年の時にあそこで小便したぞ」などと言ってきた。
作業は進まない、先輩の小便・・、いろんなことを考えていくうち、だんだんドブさらいに嫌気がさしてきた。

その日も、作業をしていたが、全然進展しない。
「もうやめよう」と思っていた時だった。
ふと周りを見ると、ギャラリーがいるのだ。
他のクラスの人間だった。
ぼくに「貫通しそう?」などと聞いてくる。
「いやあ、むずかしいねえ」
「ふーん、大変やねえ。でも頑張ってね」
その時、ぼくは『やめるわけいかんなあ』と思った。
トイレに行っても、知らない人から「あ、今日はドブ掃除せんと?」などと声をかけられる有様だ。
いつのまにかぼくは、ちょっとした『時の人』になっていたのだ。

さらに、やめられない理由が出来た。
以前書いた、『その後のぼくの人生を変える人』がぼくに注目し始めたのだ。
彼女はぼくに「何でこんなことしよると」とか、「しんた君、変わっとるね」などと声をかけてきた。
ぼくは内心嬉しかったが、「うるさい」などと言って、ブスッとした顔をしていた。
しかし、これはチャンスである。
もしここでやめたら、こんなにカッコ悪いことはない。

10日ほどして、ようやく光が見えてきた。
中を覗いてみると、1メールほど掘り進んでいるのがわかったのだ。
残り1メートルだ。
その時からぼくの気持ちは、『困難だ』から『何とかなる』に変わっていた。
そして2日後、何とかなった。
いつものように棒を突っ込むと、何か硬いものに触れた。
これは何だろうと、棒の先にその硬いものを引っかけて、思いっきり引っ張ってみた。
「ズズッ」という音がした。
1メートルほど長さの黒い固まりが出てきた。
トンネルの中を覗いた。
あちらが見える。
ついに貫通した。

教室に戻ると、みんなが「おめでとう」と言って祝福してくれた。
ぼくがドブさらいをやっていることを知らないと思っていた担任までが、「お、しんた、開通したか」と言っていた。
しかし、その後何が変わったわけではなかった。
ぼくはいつものように、教室で声を張り上げ歌を歌っているだけだった。



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