頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう!

東京時代

戸塚…

東京にいた頃、下宿の近くに戸塚第二小学校というのがあった。
所在地は新宿区高田馬場なのに、何で戸塚などという横浜の地名が付いているのだろうかと、そこに住んでいる時は不思議に思っていたものだ。

その理由を知ったのは、東京を離れてからのことだった。
古い小説を読んでいて、その地名を目にしたのだ。
それを読んでいくうちに、ぼくが住んでいたあたりは、かつて戸塚と呼ばれていた地区だったというのがわかったわけである。

そういえば、これも後で知ったことだが、そのへんを管轄している警察署は戸塚警察署という名前だったらしい。
そこに住んでいる頃は、高田馬場署とか早稲田署という名の警察署、もしくは新宿警察署が管轄している思っていたので、それを知った時はちょっと意外な気がしたものだ。
まあ、管轄の警察署を知らないということは、悪いことではない。
そういうところにお世話にならなかった証拠になるからだ。



高田馬場

東京にいた頃、ぼくは高田馬場に住んでいた。
早大生でもないのに、どうして高田馬場かというと、不動産屋に下宿を探しに行った時に、先方が「どういうところがいいですか?」と聞くので、「本屋の近くがいいです」と答えたら、「じゃあここはどうでしょう」と薦められたのが高田馬場だったというわけだ。
山手線内ということで、若干下宿代は高かったものの、資料を見ると、国電(当時)や西武新宿線の駅からは歩いて5分と近く、地下鉄駅にいたっては歩いて1分もかからない。

さっそく現地を見に行ったのだが、造りが古いことを除けば、日当たりもよく、台所も備えてあり、まずまずの印象だった。
何よりもよかったのは、駅を降りて下宿に帰るまでに、3軒の本屋があったということだ。
しかもそのうちの1軒は、地下鉄駅のすぐ横、つまり下宿から歩いて1分の位置にあった。
不動産屋に戻ると、係の人が「どうでしたか?」と聞くので、「今日からでも住みたいです」と答え、さっそく手続きをした。

で、高田馬場にどんな想い出があるのかというと、本を買った・立ち読みした、近くの牛丼屋の牛丼は妙に油は多かった、といった日常生活的な記憶以外に、そう大した想い出を持ってはいない。
それは、東京に出た最初の年こそ、せっせと下宿に帰っていたものの、次の年あたりから友人たちの家を泊まり歩くようになったためだ。
昨日は埼玉、今日は千葉、明日は神奈川といった生活をくり返していたのだ。
そのため、東京にいるのは週1回程度だった。
後で聞いた話だが、下宿のおばさんは、ぼくがいつもいないので、実家に「何で毎日下宿に帰ってこないんですか?」と馬鹿な電話をかけたりしていたようだ。

ぼくの知っている範囲では、高田馬場はのんびりした街という印象だった。
が、夜中の騒音には悩まされた。
さて寝ようかなと思っていると、突然「ドワー」という大音響。
「万歳」が聞こえてくる。
怒号が聞こえてくる。
嗚咽が聞こえてくる。
近くにこれと言った飲み屋がないのに、何の騒ぎかと思ったら、翌日の新聞を見て納得した。
東京六大学野球で早大が優勝したのだった。
大学内やその近辺の飲み屋で出来上がった学生が、その勢いで高田馬場に繰り出していたのだろう。
優勝は嬉しいかもしれないが、付近の住民にとっては迷惑な話である。

迷惑と言えば、駅前でよくヘルメットをかぶった早稲田の学生が、メガホン片手に何やらわけのわからない演説をしていた。
ぼくが東京にいた時期は、70年安保から10年近くもたっており、学生運動もかなり下火になっていた。
唾を飛ばして訴えている内容にも、具体性はなく、どこかピントのはずれたものだった。
何人かの学生がビラを配っていたが、受けとる人もいなかった。
ぼくはそれを見てある種の臭みを感じていた。
臭み、それは自己顕示・自己陶酔・自己満足だった。
きっと彼らは政治批判にかこつけて、自分たちの頭の良さを顕示していたのだろう。

後年、東京に出た際に、時間が余ったので高田馬場に寄ったことがある。
駅前はあいかわらずで、右手にビッグボックス、正面に芳林堂といった風景は変わっていなかった。
が、ぼくのいた下宿付近は大いに様変わりしていた。
第一、下宿自体がなくなっている。
しかも、そのへんに大きな建物が建っており、どの位置に下宿があったのかさえわからなくなっていた。
下宿は、早稲田通りから路地に入ったところにあったのだが、一瞬その入り口を間違えたのかと思ったものだ。
しかし、目印である地下鉄の階段はちゃんとそこに存在していた。
本屋もちゃんとあった。
ぼくが一度だけ利用したことのある床屋も、そこにあった。
しかし、あまり滞在したことのなかったところなので、感慨といったものはなかった。
これが十数年前の話であるから、今行ったとしたら、さらに様変わりしていることだろう。
案外、その路地もなくなっているのかもしれない。



浅草の想い出(後)

先にも書いたが、ぼくは東京にいた頃、毎月1回以上は浅草に行っていた。
あれは、夏の帰省前のことだった。

いつものように浅草に行き、お参りをすませた後で、境内をブラブラしていた。
前の日に、ぼくは帰る仕度をするために徹夜をした。
その疲れが、境内をぶらついている時にどっと出たのだ。
どこか喫茶店にでも入ろうかと思ったが、手持ちは帰りの電車代くらいしかない。
しかたなく、浅草寺本堂裏のベンチに腰掛けた。
そこでボーッとしていた時だった。
前の方から初老のおじさんが、笑いながらぼくに近づいてきた。
えらく人なつっこく笑うので、一瞬「知り合いかな」と思ったほどだった。
が、浅草に知り合いはいない。

おじさんはぼくの前に立つと、「こんにちは」と言った。
そこでぼくも「こんにちは」と言った。
「いい天気ですねえ」
「はあ、いい天気ですね」
「ちょっと横に腰掛けてもいいですか?」
「どうぞ」と、一人でベンチの真ん中に座っていたぼくは、場所を空けた。

「どちらから、来られましたか?」
「八幡からです」
「ああ、八幡ですか。製鉄の」
「はい」
「観光か何かで?」
「いえ、今はこちらに住んでいるんです。今度帰省するんで、観音さんに参っておこうと思って」
「ほう、それはいい心がけですねえ」
「はは…」

しばらく語っていたのだが、話は長くは続くことなく、そのまま途切れてしまった。
時計を見ると、もう夕方の4時を過ぎている。
そこで、『さて、そろそろ帰ろうかな』と思い、立ち上がろうとした。

その時だった。
おじさんが、急に手を伸ばしてきて、ぼくの股間をつかんだのだ。
あまりに突然のことだったので、何がなんだかわからなかった。
が、ようやく事態を理解したぼくは、おじさんをキッと睨み付けた。
するとおじさんは、平然とした顔で「なかなか大きいですな」と言う。
実は、おじさんがつかんだのは、ぼくの一物ではなく、座った時に出来るジーンズの膨らみ部分だった。
局部には触られてはいないものの、この画は様にならない。

「やめて下さい!」
ぼくがそう言うと、おじさんはニヤニヤしながら「まあまあ」と言い、鼻息を強めた。
『これはまずい』と本能的に思ったぼくは、おじさんの腕を逆手に取り、股間から外した。
ぼくの力が強かったためだろうか、おじさんは腕を押さえていた。
もちろん、二度目のチャレンジはしてこなかった。

「ふざけるなっ!」と言い捨てて、ぼくはその場を立ち去った。
その際に、おじさんは小声で、「気をつけて帰りなさいよ」と言った。
その言葉にカチンと来た。
が、ぼくは振り返らずに歩いた。
少し離れたところまで行き、おじさんのほうを見てみると、すでにおじさんはいなかった。
「懲りて帰ったか」と思っていると、何と横のベンチに座っているではないか。
おじさんの横には、男の人がいた。
いかにもひ弱そうに見える、小柄な男だった。



浅草の想い出(前)

神保町はともかく、ぼくが浅草に行くのにはわけがある。
26年前、東京に出る時に、居合道場の先生から、「東京に行ったら、まず浅草の観音さんにお参りしなさい」と言われた。
その道場には観音像が祭ってあった。
ぼくは中学の頃に、その道場に入門したのだが、入門した頃からずっと観音像の由来を先生に聞かされていた。
先生は支那事変の時に徴兵された際、浅草の観音様にお参りに行ったそうだ。
それが功を奏してかどうかはわからないが、大陸で敵弾にあたり負傷した際、夢枕に観音様が立ち、処方箋を与えてくれたという。
それ以来先生は、観音様へのお参りを欠かしたことがないということだった。

いわゆる観音霊験記である。
しかし、ぼくはその話を聞いて、素直に信じてしまった。
だから、東京に出たその日に、浅草寺に行っている。
浅草寺との縁は、その時から始まったわけだ。
その後、北九州に引き上げるまで、毎月一回以上は浅草寺参りをやっていた。

で、何かいいことがあったのかというと、そうではない。
ぼくは、別にそういうことを期待して、お参りしていたわけではない。
ぼくが浅草寺参りをした理由は、他にある。
確かに、霊験なるものを体験したいという気持ちを持っていた。
しかし、それは最初の頃だけのことだった。
浅草に通っているうちに、だんだんそういう気持ちは薄らいでいった。
そういう不思議体験よりも、もっといい体験ができたからだ。
それは、そこに行くことで嫌なことが忘れられる、ということだった。
浅草寺で観音様を拝んでいるうちに、人間関係や貧乏生活などでくさくさした気持ちが、いっぺんで吹き飛んだのだった。
これこそ、本当の意味の霊験ではないだろうか。
言い換えれば、ぼくにとっての浅草寺は、ちょっといい気持ちになれる場所、ということになる。

ところで、ぼくは浅草に行っても、浅草寺以外に行くところはなかった。
地下鉄を降りたら、すぐさま雷門にむかい、仲見世を通って、浅草寺の境内に入った。
観音様を拝み、境内を少しブラブラし、来た道を戻った。
浅草の滞在時間は、平均すると30分くらいだった。
そんなわけだから、もし人から「浅草に何か想い出があるのか?」と尋ねられても、「浅草寺に行って、拝んで、すぐに帰りました」としか答えられないだろう。

ん?
何か忘れているような気がする。
・・・・・
ああ、思い出した。
そういえば、一つだけ強烈な想い出を持っていた。



力ラーメン(後編)

『あしたのジョー』の中での話。
力石徹がジョーとの対戦のために過酷な減量している時、マンモス西がジムをこっそり抜け出して、屋台のうどんを食べに行った。
それを知ったジョーは、西を追いかけて行き、うどんを食べている西を殴った。
「こんなところを見たくなかったぜ、西…」「ぶざまだな。みじめだな…」「おまえはもう、みそっかすになりさがったんだ…。おれや力石の生きる世界からな」「見たくなかったよ…。お前を信じていたかったよ」
腹を殴られ、鼻からうどんを出しながら、西は言った。
「おっちゃんが、いつかいったとおりやった…。一度のんでしもうたら…、一度食ってしもうたら、それまでの減量が、苦しければ苦しいほど…、もう、耐えられんようになる…、と」「わいはあかん…。わいはだめな男や…」

そう、ぼくは一日一食の決心を破り、禁断の木の実を食べてしまった。
西の言うところの、「だめな男」に成り下がったわけである。
その翌日から、食べた食べた。
一ヶ月分30食のラーメンは、2週間ももたなかった。
もちろん、『サトウの切りもち』も。

月の初めにバイト料と仕送りでそこそこ潤っていた生活費は、最初に買ったラーメン代と切りもち代、玉子・キャベツ・ガーリック・酒、さらに友人たちとの飲み代に消え、手元にはもう5千円も残ってなかった。
その一年前に、2週間で2千円の生活を強いられたことがあるが、その再来である。
またあんな地獄の生活をしなければならないかと思うと、気が重くなった。

「どうしよう?」
その頃、すでに九州に戻ることを決めていたため、バイトは辞めていた。
しかし、背に腹は替えられない。
「もう一度、バイトをするか」と一度は決意した。
しかし、バイトを始めるにしろ、すぐにはお金が入ってこない。
とにかく、問題は今なのだ。

いろいろと迷ったあげく、ぼくは一つの決断をした。
それは、借金である。
まあ、借金と言っても、サラ金に手を出すのではない。
横須賀の叔父に借りるのだ。
すぐさま公衆電話に走り、叔父に電話をかけた。
「おいちゃん、頼みがあるんやけど…」
叔父は快く(?)了解してくれた。
「絶対返すけね」
そう言って電話を切った。

そんなこんなで、ぼくはその月を何とか切り抜けた。
「力ラーメンは力にならん。こんなものに頼っていると、ろくなことはない」と悟ったぼくは、買いだめなどという馬鹿げたことはやめることにした。
その後、四苦八苦しながらも、何とか東京での生活を終えることが出来た。
もちろん、残りの東京生活で、力ラーメンを食べることはなかった。

今でもたまに力ラーメンを食べることがあるが、その時はいつもあの頃のことを思い出している。
そういえば、東京にいた頃の体重は65キロだった。
今はそれよりも10キロ太っている。
いろいろなダイエット法を試してはいつも失敗しているのだが、そんなことをやらずとも、一人暮らしをすれば痩せられるのだ。
本当にダイエットが必要な時は、一人暮らしでもやってみるか。



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