頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう!

2005年08月

歌のおにいさん(10)

2年の頃から、ぼくはぼちぼちオリジナル曲を作るようになった。
だが、弾き語りでやる歌は、相変わらず拓郎ものだった。
オリジナル曲は、まだまだ人に聴かせられるような内容ではなかったし、またオリジナルを聴かせる度胸もなかったのだ。

その年の文化祭で、ある文化系クラブが、隣の教室でライブハウス的な喫茶店を出していた。
体育館でやるほどの勇気をぼくは持ち合わせてはいなかったが、教室ぐらいの広さなら何とかなるだろうと思い、そこに飛び入り参加させてもらうことにした。
係の人は「いいですよ。でも時間がないんで、10分程度でお願いします」と言った。
「えっ、たった10分ですか?」
「ええ」
「もっと歌わせてくださいよ」
「あと30分で閉店しますから」
「じゃあ、30分歌わせてくれたらいいやないですか」
「だめです。他にも歌いたがっている人がいますから」
「ああ、そうですか」
10分でも歌わないよりはましだと思い、ぼくはその条件をのんだ。

さっそく、ステージに行くと、そこにはマイクやアンプが用意されていた。
しかし、「教室でやるのに、こんなもの使わんでいい」と思ったぼくは、そういう機材をまったく使わず、普段教室でやっているように大声を張り上げて拓郎の歌を歌った。
最初はその声の大きさで、そこにいた人は耳を傾けてくれた。
とはいえ、ギターを弾き始めてまだ1年もたってない腕である。
早くも2曲目でボロが出てしまった。
まずコードを間違え、それに焦ったぼくの声は裏返ってしまったのだ。
だけど、それでもぼくはやめずに歌い続けた。

予定の10分がたった。
係の人がぼくのそばに来て、「時間ですよ」と言った。
しかし、ぼくはそれを無視し、結局店が閉店するまで歌っていたのだった。
そのせいで、ぼくの後に予定していた人が歌えなくなってしまい、散々文句を言われたのだった。

さて、高校時代の最大のイベントといえば、もちろん修学旅行である。
その修学旅行が近づくにつれ、ぼくは中学時の修学旅行での苦い想い出が蘇ってきた。
「あんな悔しい思いは二度としたくない。今度は最初からガンガン行くぞ!」
そう思ったぼくは、ギターを準備して修学旅行に臨んだ。

修学旅行は、富士山から信州を通って金沢に行くルートだった。
静岡まで新幹線で行き、バスに乗り換えた。
ぼくはバスに乗ると、さっそくギターを取り出した。
そして、バスガイドが案内しているのを無視して、がんがんギターを弾き、歌いまくった。



歌のおにいさん(9)

ある程度ギターが弾けるようになってから、ぼくは初めて学校にギターを持っていった。
そして、弾き語りできる歌だけを歌った。
だが、下手くそだったから、誰も見向きもしてくれなかった。
いや、たった一人だけいちおう聞いてくれた人がいた。

その一人とは、『月夜待』の君である。
しかし、彼女にぼくの弾き語りを聞かせたのは、これが最初で最後だった。
それ以降、作詞作曲に目覚めたぼくは、彼女に対する歌を数多く作っていくことになるのだが、一度もそれらの歌を彼女に聞かせたことがないのだ。

今、ホームページで『歌のおにいさん』というコーナーを作り、歌を発表しているのも、あわよくば彼女が聞いてくれるかもしれないという小さな期待を持っているからだ。
もしそういうものがなかったら、こんな恥ずかしいことをするわけがない。
せめて『月夜待』だけでも聞いて欲しいものである。
ところが、困ったことに、『月夜待』の君は自分が『月夜待』の君だということを知らないのだ。
もし、再会してぼくが教えない限り、一生わからないままかもしれない。
それを思うと、何かむなしい。

さて、1年の春休みに、ぼくは家にこもってギターの特訓をやった。
そのおかげで、アルペジオなど難しいことさえやらなければ、何とか拓郎の歌を弾けるようになった。
それに伴って歌の練習もやったから、けっこう高音が出るようになった。
その1年前は低音で歌っていたのだから、大きな進歩である。
ぼくは今でも、しゃべる声より歌う声のほうが高く、びっくりされることがあるのだが、それはこの時の練習のせいである。

2年になった。
その頃にはギターがないと歌わないようになっていたから、1年の時のような教室ライブはやらなくなった。
ただ、1年の時の癖で、授業中には歌を歌っていたようだ。
ぼくは気がつかなかったのだが、ぼくの席の周りの女子がそれを気づいて、「しんた君、授業中に歌いよったやろ」と言ってきた。
最初は何のことを言っているのかわからずに、「この女、何を言いよるんかのう」などと思っていたが、それを言われてから、ようやく自分でもわかるようになった。
勝手に口が動いているのだ。
しかし、ぼくはその癖を直そうとはしなかった。

ところで、2年のクラスには『初恋』の君がいた。
が、すでに『月夜待』の君に心を奪われていたぼくは、『初恋』の君に何の関心も持たなかった。
それゆえに、高校2年時、彼女のために歌おうなどとは、まったく思わなかった。
「あの頃よりは、歌が上手くなったぞ」とか「ギターが弾けるようになったんぞ」とかいう思いは、心のどこにもなかった。
2年前、あれほど思い悩んだのが嘘のようである。

しかし、考えてみたら、その人のおかげで歌を歌うことを覚えたのだ。
ということで、『初恋』という歌は、そのお礼ということにしておこう。



歌のおにいさん(8)

拓郎の歌を歌っていくうちに、だんだん物足りなさを感じてきた。
ただ歌うでは面白くなくなってきたのだ。
やはり、拓郎をやるなら、ギターは必須である。
ギターがあってこそ拓郎の歌は生きてくる。
また、ギターがあれば、以前からの夢であったオリジナル曲も作ることが出来るだろう。

だが、そのギターがない。
そこで親にギターを買ってくれと頼んでみた。
が、「そんな金はない」と一蹴されてしまった。
こうなればアルバイトしかない。
当時、ぼくたちの学校では、アルバイトは禁止されていた。
とはいえ、そういうのは無視すれば何とかなる。
ということで、何件かアルバイト先を当たってみた。
ところが、それらはすべて夕方のバイトだったため、放課後クラブ活動をやっていたぼくには到底出来ない。
せめて日曜日だけでもということで探してみたが、そういうバイトは見つからなかった。

ところが、歌の神様は、そこでぼくを見捨てなかった。
ある日、親戚から電話がかかった。
使ってないギターがあるから、それをあげると言ってきたのだ。

なぜ親戚の人が、ぼくがギターをほしがっているのを知っていたのかというと、実はぼくのいとこがクラスの女子の家(花屋)で働いていた。
いとこは、その子にいろいろとぼくのことを話したり聞いたりしていたらしいのだ。
それで、ぼくがギターを欲しがっているというのを知ったというわけだ。

さて、ギターを手に入れてからのぼくは、一日中ギターのことばかり考えていた。
そのため、一時的に教室ライブをやらなくなり、代わりに箒を手にギターコードの練習をするようになった。
もちろん家に帰れば、寝るまでギターの練習をやっていた。
その甲斐あって、ギターを手に入れてから2週間後には、下手なりにも何とか一曲の弾き語りが出来るようになった。
その歌は、拓郎の『こうき心』という歌だった。
何でこの歌だったのかというと、コード進行が比較的簡単で、FやBといった難しいコードを使わなくてすんだからだ。

『こうき心』が出来るようになって、再びぼくの教室ライブは復活した。
箒を抱えて、『こうき心』を歌うのである。
せっかくギターが手に入ったのだから、ギターを持ってきてやればよかったのだが、やっとAmを覚えたばかりの素人のぼくには、ギターを持ってくるなどという勇気はなかったのだ。

その後は、拓郎を聞き始めた頃と同じように、一曲弾けるようになると、箒を抱えて教室ライブをやるようになった。
箒を抱えるという姿がおかしかったのか、見ている奴らは笑っていた。
が、ぼくはけっこう真剣だった。
なぜなら、箒をギターに見立てて、イメージトレーニングをやっていたわけだからだ。



歌のおにいさん(7)

ぼくはレコードを買ったり借りたりして拓郎の歌を聴き、そして覚えていった。
覚えては、教室でその歌を歌う毎日を繰り返した。

ぼくがあまり拓郎の歌ばかり歌うので、『月夜待』の君も拓郎に関心を寄せたらしく、ある時ぼくに「わたし、昨日拓郎のレコードを借りて聴いてみたよ」と言ってきた。
ぼくが「拓郎はいいやろ?」と言うと、「まだ一回しか聞いてないけよくわからんのやけど、『男の子女の娘』という歌がよかった」と言う。
すかさずぼくがその歌を歌うと、彼女は「えっ、そんな歌やったかねえ?」と言う。
「この歌はこんな歌ぞ」
「なんか違うような気がするけど…」
「おまえ、耳がおかしいんやないか?」
「そんなことないよ」

その頃のぼくは、彼女のことを気に入ってはいたが、自分の中でまだ好きだとは認めてなかった。
だからこそ、「耳がおかしい」などと平気で言えたのだ。
彼女のことを「好きだ」と認めてからは、そういうことを言ったこともなければ、思ったこともない。

さて、どうも納得のいかないぼくは、家に帰ってから彼女が好きだというその歌を聴いてみた。
が、ぼくが歌うのと何ら変わらない。
「やっぱりこんな歌やないか。しかし、彼女は何でこんな歌が好きなんやろう?熱狂的な拓郎ファンでも、この歌を好きという人はあまりおらんと思う」
案の定、ぼくの人生の中でこの歌を好きだと言ったのは、彼女一人しかいなかった。
そこで、ぼくは「きっと、彼女は歌を聞き間違えたんやろ」と結論づけた。

そして翌日、ぼくはそのことを彼女に言おうとした。
が、あいにく彼女は、友人たちと談笑にふけっていたため、なかなか入り込むチャンスがつかめなかった。
そうこうするうちに、一日は終わってしまった。
その翌日になると、今度はぼくのほうがそのことを忘れてしまっていた。
それを思い出したのは、何週間か先のことだった。
「今更言うのも何だから」、という理由で、結局そのことは言わずにおいた。
今になってみれば、それが心残りである。
もし、あの時そのことを言っていたら、そのことがきっかけとなって、二人の間はもっと違った方向に行っていたかもしれないのだから。

ぼくと彼女との間には、そういうちょっとした行き違いが多々ある。
その当時は、その行き違いにいちいち理由をつけて、「これが後々ドラマチックな展開につながるんだ」と思っていたものだった。
ところが、その勝手な思い込みは、結局8年間の片思いにつながってしまった。
当時のぼくは、夢見るおバカだったのだ。



歌のおにいさん(6)

デビューの曲目を決めた日、ぼくは例のごとく押し入れにこもって、その歌を練習をした。
そして次の朝、教室に入るなり、その歌手を真似て、いやらしくその歌を歌った。
みんなの視線がぼくに集まった。
「誰、あの人?」
「H中出身の、しんたという人らしいよ」
「変な人やね」
歌っている最中、そんな声がぼくに聞こえてきた。
が、ぼくはそんな声を無視して歌い続けた。

ということで、その作戦は見事に成功した。
クラス中の人がぼくの存在を認め、ぼくのイメージは「暗い人」から「面白い人」に変わった。
もちろん『月夜待』の君も、ぼくの存在を知ることになった。

さて、その歌はいったい何だったのか?
勘のいい人なら、もうおわかりだと思うが、その歌は、ぴんからトリオの『女のみち』である。
言わばこの歌が、『月夜待』の君に捧げる最初の歌となったのだった。

その日から、ぼくは毎日歌を歌い続けた。
そのたびに注目度は増してくる。
『月夜待』の君も、ぼくに関心を持ったようで、時折声をかけてくるようになった。
そのたびにぼくはバカをやっていた。
もちろん本気でバカをやっていたわけではない。
照れ隠しである。

さて、毎日歌を歌ってはいたものの、いつまでも『女のみち』を歌っていたわけではない。
歌本を持っていっては、知っている歌を片っ端から歌っていたのだ。
それを続けていくうちに、ぼくの中である変化が起きた。
最初は目立つために始めた歌だったが、そのうちそれが癖になってしまい、歌わないと落ち着かなくなっていたのだ。
休み時間はもちろんのこと、授業中も自然に歌が出てくるようになっていた。

そんなある日のこと、ぼくはひとつの武器を手に入れることになった。
人生最大の武器といってもいいかもしれない。
その武器とは、『吉田拓郎』である。
いつものように家に帰ってFMを聞いていると、ちょうど吉田拓郎の特集をやっていた。
最初は何気なく聞いていたのだが、そのうち身を乗り出して聞くようになり、ついにぼくの体中は拓郎でいっぱいになった。
拓郎洗礼の瞬間である。
とにかくすごい衝撃だった。
放送が終わった後も、拓郎の歌がずっとぼくの中で鳴り響いていた。

拓郎の何に衝撃を受けたのかというと、その歌詞であり、その曲である。
彼は決して歌が上手い方ではない。
だが、彼の歌を聴くと、そんなものどうでもいい、という気がしてくるのだ。
妙に説得力のある歌いっぷりは、『自分の作った歌』、という誇りからくるものなのだろう。
「やはり、オリジナルだ」と、ぼくはその時漠然と思ったものだった。

とにかく、その翌日から、ぼくは他の歌を一切歌わなくなった。
そう、拓郎オンリーになったのだ。



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