頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう!

2004年12月

総括2004年

2004年最後の日記である。
つらつらと今年書いた日記を読み直してみたのだが、これと言って特徴のない一年だったといえる。
まあ、特徴のあった年というのは、人生の節目になった年とか、大打撃を受けた年くらいしかない。
大打撃を受けた年というのは、この日記に連載している『上京前夜』の年とか『左遷』のあった年とか、退職した年である。
そんなことが毎年毎年起きていたら、きっと生きていくのが嫌になるだろう。
やはり無事是貴人で、何事もないのが一番である。

そういえば、毎年この時期には来年の希望や目標を書いている。
だが、今年は何も思い浮かばない。
実際、こうしたいとか、こうなりたいとかいったものがまったくないのだ。
強いて上げるとしたら、「五十肩を治したい」くらいだろうか。

今年の1月末に急に肩が上がらなくなったのだが、それがまだ完治していないのである。
早いうちに整骨院や整体院といった、しかるべきところに行こうと思っていた。
ところが、まごまごしているうちに歯のほうが悪くなり、今はそちらのほうに通っている。
医療費3割負担のご時世なので、いくつもの病院を一度に通うわけにはいかない。
とりあえず歯医者を終わらせてから、ということになるが、最初に歯医者に行った時、先生から「ああ、たくさん虫歯がありますねえ。これは長引きますよ」と言われているのだ。
そういうわけなので、歯医者がいつ終わるのかわからない。
1ヶ月で治療が終わった歯が3本だから、この計算で行くと、歯医者が終了するのは3,4ヶ月後になるだろう。
それまで、肩の痛みと戦わなければならないことになる。
まあ、日常生活に支障をきたすところまでいってないのが、せめてもの救いだが、長引くとけっこう大変らしいから、できたら早目に治しておきたい。

そういえば、来年は、マンションの役員が回ってきていた。
「うちは、土日が休みじゃないし、帰るのがいつも10時過ぎるから」と言っていつも断っていたのだが、「順番制ですから」ということで逃れられなくなったのだ。
28日にその役割分担について話し合いがあった。
当初嫁ブーは、ぼくをその会合に出させようとしていた。
しかし、ぼくは拒んだ。
「何でおれが行かないけんとか」
「わたしそんなのに出たくないもん」
「おまえが行くべきやろ」
「そんなはことない」
「よく考えてみ。そういう会合は、普通奥さんが出るやないか」
「そうやねえ」
「そういうところに、男がのこのこと出て行ったら、『この人、やる気がある』と思われるやないか」
「ああ、そうか」
「そうなったら、『せっかくご主人が来られてるんですから、理事長になってもらえませんか』となるやろ」
「そうやねえ」
「だから、おまえが行け」
「わかった」
ということで、嫁ブーを会合に出させることに成功した。

結局、役割分担はくじ引きでやったそうで、ぼくの役は『副理事』となった。
嫁ブーの話によると、副理事は何もしなくていいということだった。
ぼくはそれを聞いて、
「やっぱりおまえを行かせて正解やったの」
「うん」
「おれやったら、おそらく理事引いてしまっとったやろう」
「わたし、こういう時はくじ運強いっちゃ」
「そうやのう。おまえが行けば、何事もうまくいくのう。これからもよろしく」
「まかしとって」
これで、副理事の仕事は嫁ブーがするだろう。

さて、来年はなにをしようか。



上京前夜(2)

中国展でのアルバイトが終わり、ぼくはボンヤリとした生活を送っていた。
1ヶ月半のバイト期間中、一日も休まず働いた疲れが出たのだ。
アルバイトの二日酔い状態と言ったらいいだろうか。
しばらくぼくは、何もやる気が起こらなかったのだ。

その中国展で稼いだアルバイト料は、15万円程度だった。
しかし、ぼくはそのお金には何の興味もなかった。
お金を稼ぐのが目的で、そのアルバイトをしていたわけではなかったからだ。
ではいったい何が目的だったのかというと、働くことだった。
とにかく、大学受験失敗以降続いた約半年間のスランプは、ぼくにとっては長すぎた。
そのため、体が働くことを欲したのだ。
もし、その時立ち直らなかったら、おそらく今もぼくは立ち直ってなかっただろう。
そういう意味で、中国展のアルバイトは、ぼくの人生において、一つの転機だったといえるだろう。

さて、そのアルバイト料だが、すべて母に渡した。
母が「何に遣おうか?」と言うので、「風呂の修理代にでもすればいいやん」と言った。

実は、ぼくが中国展でアルバイトを始める少し前から、家の風呂が壊れていたのだ。
当時、ぼくの家の風呂はまだガス風呂ではなく、石炭風呂だった。
石炭風呂には、煙突がつきものである。
その煙突が台風のせいで割れてしまったのだ。
それが原因で、煙突を伝わった風が釜の中の煤を吹き上げるようになった。
そのせいで風呂場はいつも煤だらけになっていたのだった。

たまたまそれを見たガス屋が、「ガス風呂に換えたらどうですか?」と言ってきた。
母が「いくらくらいかかるんですか?」と聞くと、ガス屋は「そうですねえ、詳しく見積もってみないとわかりませんが、10万円ほどはかかると思います」と言う。
10万円、貧乏なぼくのうちにとっては大金だった。
しかも、まったく仕事をしない扶養家族を一人抱えている状況だ。
母は「10万円ですか。今はちょっと買えません」と言って、断った。

ガス屋が帰ったあと、いつものように母の小言が始まった。
「あんたが、ちゃんと仕事をしてくれたら、すぐにでもガス風呂に換えられるのにねえ」
「それとこれは関係ないやん」
「関係なくはない。どうして、あんたは仕事をせんのかねえ」
「仕事がないんやけしょうがないやん」
「仕事がないんやない。仕事はいくらでもある」
「でも、採用されんやん」
「それは、あんたに仕事をする気がないけよ。相手はそれを見抜いとるけ採用せんのよ」
「仕事をする気はある」
「じゃあ、さっさと探してきなさい」
「明日探してくるっちゃ」
「何であんたは、いつも『明日』と言うかねえ。何で『今から』と言えんのかねえ」
「いちいちうるさいねえ。ちゃんと働いて、風呂ぐらい、いくらでも直してやる」
そういうやりとりが数ヶ月続き、ようやくぼくは中国展で本格的にアルバイトするようになったのだった。

バイト料を母に渡す時、そういういきさつがあったのを思い出したわけである。
母は当然のような顔をして、それを受け取った。



酔っぱらいのおいちゃん、ついに逮捕される

例のごとく、今日の日記は『上京前夜(2)』となるはずだった。
が、ちょっとおもしろいニュースが入ってきたので、今日はそちらのほうを書くことにする。

“「ごみに火を付け逮捕」
27日午後11時20分ごろ、戸畑区夜宮3のごみ集積所から出火し、男が前に座っているのを発見した通行人が110番。
駆けつけた署員が住所不定、無職、H.T容疑者(65)を集積所の案内看板を焼損させた器物損壊容疑で現行犯逮捕した。H容疑者は酒に酔っており、容疑を認めているという。(戸畑署調べ)”
(12月29日付毎日新聞朝刊より)

このH.T容疑者、新聞に載るのは二度目である。
最初に記事になったのは、

“「雨の日のVIP」
雨がシトシトと降る夜は、戸畑署員の不安の日だ。60歳くらいの男性が決まってやって来て、当直員を困らせるからだ。
署員によると男性は日雇い労働者らしい。
だが、最近は仕事がなく戸畑の街を自転車に乗り夜の寝床を探しているという。戸畑署に現れると酔っ払った上に死んだふりをして居座る。そして保護室で朝を迎える。彼にとっては警察署が格好のホテルとなる。
実は、男性は根気が必要な山芋掘りの名人。金が尽きると山で長さ1メートルはある自生の山芋を掘り、料亭と1本1万円で取引する。
「どこか彼の働く場所はないのかな。山芋を掘る根気で頑張ってくれれば」と、署の幹部は雨雲を恨めしそうに見上げている。”
 (2002年6月26日付毎日新聞朝刊より)

ぼくの日記を長く読んでくれている人なら、ピンとくるだろう。
そう、このH.T容疑者とは、ぼくの日記に頻繁に出てくる、『酔っ払いのおいちゃん』のことである。
そして、冒頭の記事は、「酔っ払いおいちゃん、ついに逮捕される」の記事である。
最近とんと顔を見せないと思っていたら、こういうところで活躍していたのだ。
しかし、この日記に登場するのは、どのくらいぶりになるだろうか。
調べてみると今年の2月8日と9日に『酔っぱらいブギ』というタイトルで書いていた。
そこには、うちの男子従業員から外に放り出された、と書いている。
おそらく、それがおいちゃんに関する日記で、一番最近のものだろう。

それはそうと、知らない人がこの記事を見たら、おいちゃんは放火犯だと思うかもしれない。
が、このおいちゃん、そんな大それた犯罪を犯すほどの根性は持っていない。
おいちゃんのことを知る者は、おそらく、「昨日の夜は寒かったので、たまたま居合わせたところでたき火をやったのだろう」と思うことだろう。

もしくは、「おいちゃん一流のパフォーマンスかもしれない」と思うかもしれない。
年末から正月にかけて寒くなるという情報を、どこからで小耳に挟み、「寒くなるんか。じゃあ、警察にでも泊めてもらうか」と思い、何かやってやろうと思ったのかもしれない。
しかし、警察も年末で忙しい。
前回のように「死んだふりをして居座」っても、相手にしてくれないだろう。
そこで、寒さを紛らわせることも考えて、火を付けたのかもしれない。
そしてそれは、逮捕という形で成功したのだ。
これでおいちゃんは、寒い年末年始を、暖かい留置所で過ごせるだろう。

もし、警察が、本当においちゃんに罰を下すつもりなら、さっさと釈放すればいいのだ。
それが、今のおいちゃんには一番効き目があるだろうからだ。



上京前夜(1)

「ああ、ぼくの青春は恋と歌の旅、果てることなく…♪」
吉田拓郎の『準ちゃんが吉田拓郎に与えた偉大なる影響』という、長ったらしいタイトルの歌の一節である。
高校時代、拓郎に憧れていたぼくは、当然のように、この歌詞と同じ道を歩むことになる。
とにかく、ぼくの10代の後半というは、歌のことを思っているか、好きな人のことを思っているかのどちらかだった。
そのため、勉強はおろそかになり、1浪半の末、結局大学進学を諦めることになった。
それを決めたのが、1977年10月のことだった。

その年の9月から始めた中国展のアルバイトが、翌10月に終わった。
他のバイト仲間は、そこからの道を決めていた。
だが、ぼくだけがその答を出すことが出来なかったのだ。
「しんたは、このバイトが終わったらどうするんか?」
「特に考えてない」
「大学受けんのか?」
「大学ねえ…。もう勉強する気もないしねえ…」
「そうか。じゃあ就職か」
「うーん…」
将来について聞かれるたびに、ぼくはいつもこんな煮え切らない受け答えをしていた。

何もぼくは将来を考えていなかったわけではない。
そういう煮え切らない態度をとることで、ある決心を隠していたのだ。
それが高校時代から抱いていた、「フォークシンガーになりたい」という夢であった。
高校の頃までは、「将来何になりたいか?」と聞かれたら、すかさず「フォークシンガー」と答えていたのだが、そう答えるたびに「何を馬鹿なことを言うとるんか」と笑われたものだった。
そういうことがあったので、ぼくは自分の夢を隠すようになったのだ。

なぜフォークシンガーになりたかったのかと言えば、答は簡単で、好きな女の子にそういう自分を見てもらいたかったからだ。
しかし、それだけではなかった。
ぼくは小さな頃から主張の強い人間だったのだが、その表現がへたであった。
そのため、人から誤解を受けることも多かった。
そこで、自分でも出来る自己表現法はないかと、いつも探していたのだ。
そして、それを高校時代に見つけた。
それが、フォークだった。
もし、それを職業に出来るなら、こんなにいいことはない。
そう思って、必死にギターを練習したのだった。

77年と言えば、ギターを始めてからすでに4年がたっていた。
何度か自作の曲を人前で歌ったりして、けっこういい評価を得ていた。
そのおかげで、演奏や歌にはある程度の自信を持っていた。
だが、あと一歩が踏み出せないでいた。
ぼくはその一歩を、長い浪人時代に探していたのだ。



算数の効能

最近、また算数の勉強をやっている。
新たに、『大人のための~』といった算数の問題集を買い込んだのだ。
最近日記の更新が遅れるのは、これに時間を費やしているからでもある。

初めて算数に取り組んだのは、もう数年前のことになる。
その頃はまだ『大人のための~』というような問題集は出てなかった。
そのため、中学入試の問題集を買ってきてやっていたのだ。
なぜ、そんなことをやり出したのかというと、あるクイズ番組で、方程式を使わないで解き方があると聞いて、それを知りたいと思ったからだ。

最初のうちは、一つの問題を解くのにも、かなりの時間を要していた。
が、だんだんやっていくうちに、その要領を覚え、問題を解く時間は短くなっていった。
それをやっていて思ったことは、算数問題の切り口は一つだけではないということだった。
いろいろな方向から斬っていけるのだ。
そこが、解き方が一つしかない方程式との大きな違いである。
要は、どう解いていくかという着眼点が重要視されるのだ。

「いろいろな方向から斬っていく」そういう考え方をやっていると、それをいろいろな方面で試したくなってくる。
そこで、その考え方をいろいろなところで応用しだした。
身近な例で言えば、仕入れ伝票の計算。
何ヶ月か前から、伝票整理をする時にはなるべく電卓を使わないで、暗算でやるようにしている。
まあ、複雑な計算や2桁×3桁のようなものは別としてだが、一桁×3桁・4桁くらいの計算なら、まず電卓を使うことがない。
これも、「電卓を使わないで、計算する方法はないだろうか」と考えた結果である。

例えば、1980円の商品が7個入ってきたとする。
学生の頃はこういう場合、(1000×7)+(900×7)+(80×7)とストレートにやっていたのだが、これだと算数が苦手だったぼくとしては、紙に書きとめないと計算ができない。
そこで、もっと簡単に計算する方法はないかと考えた。
考えついたのが、(2000×7)-(20×7)という方法だ。
これだと紙に書きとめなくても、14000から140を引くだけの計算ですむのだ。
まあ、そういう計算も面倒と言えば面倒であるが、3つの数字を足していくよりは、はるかに楽である。
他にも、ある商品が5個入ってきた時の計算は、その商品の価格をを2で割って10掛ければ、その答は簡単に導き出せる。

まあ、こういった計算方法は、もっと早くから、多くの人がやってることだろうし、もしかしたら、もっと高度なことを電卓を使わずにやっているのかもしれない。
しかし、そういうことが問題なのではない。
それを自分で発見するということが、何よりも大切なことなのである。
人から教わってやるのでは、何にもならないのだ。

算数をやったおかげで、ぼくはいろいろな切り口で負け惜しみが言えるようになった。



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