頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう!

2004年03月

傾きかけた日々

 『傾きかけた日々』

 傷ついた部屋に閉じこもって
 ぼくは何気なくマッチをすった
 前からやっていたような気もするけど
 これが初めてのような気もする

  その日太宰府は雨の中にあった
  ただいつもと違うことは傘が二つ
  小さな梅の木はただ雨の中に
  そうやっていつも春を待つんだろう

 マッチをすっては何気なく消して
 また新しい火を起こしながら
 うつろに風を眺めている
 だけどそれも何気なく忘れて

  騒ぎすぎた日々と別れるように
  今日太宰府は雨の中にあった
  もう今までのようなことはないような気がする
  あるとすれば次には君がいる


ぼくは現在まで、オリジナル曲を200曲ほど作っている。
その中には、いろいろなタイプの歌がある。
恋愛の歌、人生の歌、生活の歌、回顧の歌、お笑いの歌、惰性で作った歌などである。
それぞれのジャンルの中にも、歌詞を重視した歌、曲を重視した歌がある。
今回プレイヤーズ王国で公開した『傾きかけた日々』は、歌詞に「君」だとか「傘が二つ」だとかいう言葉があるため、恋愛の歌と思われるかもしれないが、実は回顧の歌なのである。

その回顧とは、太宰府に行ったことではない。
この歌の中では、太宰府に行ったことは、すでに過去になっている。

その太宰府に行ったのは、高校2年の年の11月だった。
前の月からつきあい始めた彼女との、初デートの場所が太宰府だったのだ。
その日のデートは、完全に白けたものだった。
何となく面白くなさそうな彼女を見て、ぼくも不愉快な気持ちになったものだ。
話も弾まない。
ぼくはいつもの調子で話しているのだが、どうも彼女のノリが悪い。
そばに寄ると迷惑そうな顔をするし、ぼくはだんだんうんざりしてきた。
そのせいで、ぼくは帰りの電車の中でふて寝することになる。
それでも「このまま終わってはいけない」と思い直し、駅に着いて、ぼくは「何か食べて帰ろうか?」と食事に誘った。
が、彼女は「いらない」と言う。
「送っていく」と言ったが、それも「いい」と断る。
もう、勝手にしろ、である。

家に帰ってからも、ぼくは怒りが収まらなかった。
太宰府でのことといい、駅でのことといい、思い出せば出すほど、怒りの度合いは強くなる。
その状態がどのくらい続いただろうか。
だんだん怒ることが馬鹿らしく思えてきた。
つきあうことにも、「もうどうにでもなれ」という気持ちになっていた。
そのうちぼくは、放心状態になっていった。
覚えたばかりのタバコを取り出し、火をつけたまでは覚えている。
その後、いったい何本のマッチを擦ったのだろう。
気がつくとマッチの燃えかすが、灰皿の中に、何本も置かれていた。
ようやく正気に戻ったぼくに、「この先どうなっていくのだろう?」という不安がよぎった。
それは、二人の恋の行方に対することではなく、人生に関わることだった。
「今まで、少し浮かれていたのかもしれん。このままだとだめになっていくような気がする」
そう思うと、将来が怖くなった。
回顧していたのは、この時の、ぼくの心の中である。

さて、二人の仲がどうなったかであるが、こんなつきあいが長続きするはずもなかった。
その後、電話をすることも少なくなり、その月の終わりに、ぼくたちの仲は消滅してしまった。
当然のことながら、未練など何も残らなかった。

ところで、歌詞の最後に出てくる「君」だが、もちろん太宰府の彼女のことではない。
ぼくがオリジナルを作る、そのきっかけを作った女性のことである。
恋愛の歌のほとんどは、その人のことを歌っている。



花見

ラジオでダイエー戦の中継を聴いると、「今日、福岡市に桜の満開宣言が出た」と言っていた。
今日たまたま福岡に行く用があって、昼から出かけたのだが、仰々しく「満開宣言」するほども桜は咲いてなかった。
いったいどこを基準にして、満開などと言っているのだろう。

ぼくは毎年観梅に行くほど、梅の花には興味を持っているのだが、桜の花には、まったくと言っていいほど興味を持っていない。
だから、花見なる行事には、あまり参加したことがない。
「出たがり」だった小学生の時ですら、花見には一度しか参加したことがない。
それは小学3年生の時に、親族一同で行った花見で、強制的に連れて行かれたのだ。
「行かんのなら、一人で留守番しときなさい」と言われ、渋々ついて行った。
それ以外にも、何度か花見に誘われことがあるのだが、友だちに誘われても、子供会の行事であっても、参加はしなかった。
中学や高校の時も、花見だけはしなかった。
というわけで、社会に出るまで、花見をしたのは、小学3年生の時の一回きりだった。

社会に出てからは、二度花見に参加している。
一度目は社会に出た翌年だった。
会社行事で参加したのだ。
もう一度は3年前、仲間内での花見だった。
さすがに3年前のことは覚えているが、20代の時のことはすっかり忘れてしまっている。
興味がないから、花見の印象が残らないのだ。
したがって、花見ネタは、ぼくには書けない、ということになる。

とはいえ、ぼくは別に花を見ることが嫌いなわけではない。
ただ、あの「花見」と銘打った宴会が嫌なだけなのだ。
元々野外で酒を飲むのは趣味ではないし、ゴザ敷いて弁当広げるのも好きではない。
しかも、桜咲く春より、梅ほころぶ春を喜ぶ人間であるため、桜の花を見ても浮かれた気分になれないときている。
桜を見ても何も感じないぼくには、車の中から愛でるくらいがちょうどいいのかもしれない。



人間関係というのは実に難しい

前の会社にいる頃は、しょっちゅう上司が入れ替わっていた。
最初は、ぼくが異動になったために、必然的に主任が替わった。
次はその売場の主任が転勤になった。
それから1年して、後釜の主任が会社を辞めた。
その後は、ぼくがその売場の責任者となったため、直属の上司というのは店長になった。

その店長というのが、しょっちゅう入れ替わる。
短くて1年、長くても2年で転勤になるのだ。
昔から要領が悪く、上司なる人との付き合いをうまくできないぼくにとって、これは苦痛だった。
ようやくその人に慣れ、何とか折り合いがよくなった頃に他の人と入れ替わるのだから。
そこからまた、新しい人と人間関係を作らなくてはならない。

そんな店長の中には、ついに折り合いが悪いままに終わった人もいる。
ぼくに言わせてもらえば、彼らはろくな人間ではなかった。
いい加減な仕事しかせず、何か起これば、すぐに部下のせいにして逃げる。
しかも、そういう人が店長をやっている時に限って、大問題が起こっているのだ。
大問題が起こり、早々に彼らが退陣されられたからこそ、彼らとはいい人間関係を築くことができなかったとも言える。

さて、いろいろな上司の下で働く時、ぼくは一つのことを心がけていることがある。
それは、口先では「店長」と呼ぶものの、心の中では「店長」と呼ばないということである。
例えば、店長の名前が「正男」だったとする。
何か用がある時、口先では「店長」と呼びながらも、心の中では「こら、正男!」と呼ぶのだ。
また、小言を言われるたびに、「また正男が、馬鹿なことを言って」と思う。
そう思うことによって、店長という存在感が消え、心理的に楽になれるのだ。

なぜぼくが、そんなことをやっていたかというと、ある心理学の本に、「人を肩書きで認知すると、心理的な距離が出来る」と書いてあったからだ。
つまり、その人と距離を置きたくないなら、肩書きで認知するな、ということである。
考えてみれば、店長という肩書きはあるものの、それがなければ彼は「正男」にすぎないのである。
ぼくはすぐさま、「店長」の肩書きを「正男」と認知することにした。
そのおかげで、肩書きから受ける重圧から解放されたのだ。

もし、上司との折り合いが悪くて悩んでいる人がいたら、一度試してみるといいだろう。
名前を思うのも嫌だったら、ニックネームで認知するのもいい。
きっと重圧を感じなくなるはずだ。

とはいえ、それで人間関係がうまくいくはずはない。
あくまでもこの方法は、心理的な重圧を克服するためだけのものだからである。
その証拠に、この方法を実行しだしてから、ぼくは「生意気だ」というレッテルを貼られ、人間関係は最悪なものになってしまった。



浅草の想い出(後)

先にも書いたが、ぼくは東京にいた頃、毎月1回以上は浅草に行っていた。
あれは、夏の帰省前のことだった。

いつものように浅草に行き、お参りをすませた後で、境内をブラブラしていた。
前の日に、ぼくは帰る仕度をするために徹夜をした。
その疲れが、境内をぶらついている時にどっと出たのだ。
どこか喫茶店にでも入ろうかと思ったが、手持ちは帰りの電車代くらいしかない。
しかたなく、浅草寺本堂裏のベンチに腰掛けた。
そこでボーッとしていた時だった。
前の方から初老のおじさんが、笑いながらぼくに近づいてきた。
えらく人なつっこく笑うので、一瞬「知り合いかな」と思ったほどだった。
が、浅草に知り合いはいない。

おじさんはぼくの前に立つと、「こんにちは」と言った。
そこでぼくも「こんにちは」と言った。
「いい天気ですねえ」
「はあ、いい天気ですね」
「ちょっと横に腰掛けてもいいですか?」
「どうぞ」と、一人でベンチの真ん中に座っていたぼくは、場所を空けた。

「どちらから、来られましたか?」
「八幡からです」
「ああ、八幡ですか。製鉄の」
「はい」
「観光か何かで?」
「いえ、今はこちらに住んでいるんです。今度帰省するんで、観音さんに参っておこうと思って」
「ほう、それはいい心がけですねえ」
「はは…」

しばらく語っていたのだが、話は長くは続くことなく、そのまま途切れてしまった。
時計を見ると、もう夕方の4時を過ぎている。
そこで、『さて、そろそろ帰ろうかな』と思い、立ち上がろうとした。

その時だった。
おじさんが、急に手を伸ばしてきて、ぼくの股間をつかんだのだ。
あまりに突然のことだったので、何がなんだかわからなかった。
が、ようやく事態を理解したぼくは、おじさんをキッと睨み付けた。
するとおじさんは、平然とした顔で「なかなか大きいですな」と言う。
実は、おじさんがつかんだのは、ぼくの一物ではなく、座った時に出来るジーンズの膨らみ部分だった。
局部には触られてはいないものの、この画は様にならない。

「やめて下さい!」
ぼくがそう言うと、おじさんはニヤニヤしながら「まあまあ」と言い、鼻息を強めた。
『これはまずい』と本能的に思ったぼくは、おじさんの腕を逆手に取り、股間から外した。
ぼくの力が強かったためだろうか、おじさんは腕を押さえていた。
もちろん、二度目のチャレンジはしてこなかった。

「ふざけるなっ!」と言い捨てて、ぼくはその場を立ち去った。
その際に、おじさんは小声で、「気をつけて帰りなさいよ」と言った。
その言葉にカチンと来た。
が、ぼくは振り返らずに歩いた。
少し離れたところまで行き、おじさんのほうを見てみると、すでにおじさんはいなかった。
「懲りて帰ったか」と思っていると、何と横のベンチに座っているではないか。
おじさんの横には、男の人がいた。
いかにもひ弱そうに見える、小柄な男だった。



浅草の想い出(前)

神保町はともかく、ぼくが浅草に行くのにはわけがある。
26年前、東京に出る時に、居合道場の先生から、「東京に行ったら、まず浅草の観音さんにお参りしなさい」と言われた。
その道場には観音像が祭ってあった。
ぼくは中学の頃に、その道場に入門したのだが、入門した頃からずっと観音像の由来を先生に聞かされていた。
先生は支那事変の時に徴兵された際、浅草の観音様にお参りに行ったそうだ。
それが功を奏してかどうかはわからないが、大陸で敵弾にあたり負傷した際、夢枕に観音様が立ち、処方箋を与えてくれたという。
それ以来先生は、観音様へのお参りを欠かしたことがないということだった。

いわゆる観音霊験記である。
しかし、ぼくはその話を聞いて、素直に信じてしまった。
だから、東京に出たその日に、浅草寺に行っている。
浅草寺との縁は、その時から始まったわけだ。
その後、北九州に引き上げるまで、毎月一回以上は浅草寺参りをやっていた。

で、何かいいことがあったのかというと、そうではない。
ぼくは、別にそういうことを期待して、お参りしていたわけではない。
ぼくが浅草寺参りをした理由は、他にある。
確かに、霊験なるものを体験したいという気持ちを持っていた。
しかし、それは最初の頃だけのことだった。
浅草に通っているうちに、だんだんそういう気持ちは薄らいでいった。
そういう不思議体験よりも、もっといい体験ができたからだ。
それは、そこに行くことで嫌なことが忘れられる、ということだった。
浅草寺で観音様を拝んでいるうちに、人間関係や貧乏生活などでくさくさした気持ちが、いっぺんで吹き飛んだのだった。
これこそ、本当の意味の霊験ではないだろうか。
言い換えれば、ぼくにとっての浅草寺は、ちょっといい気持ちになれる場所、ということになる。

ところで、ぼくは浅草に行っても、浅草寺以外に行くところはなかった。
地下鉄を降りたら、すぐさま雷門にむかい、仲見世を通って、浅草寺の境内に入った。
観音様を拝み、境内を少しブラブラし、来た道を戻った。
浅草の滞在時間は、平均すると30分くらいだった。
そんなわけだから、もし人から「浅草に何か想い出があるのか?」と尋ねられても、「浅草寺に行って、拝んで、すぐに帰りました」としか答えられないだろう。

ん?
何か忘れているような気がする。
・・・・・
ああ、思い出した。
そういえば、一つだけ強烈な想い出を持っていた。



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