頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう!

2003年06月

しんたのブランド その1

【Leeのジーンズ】
ぼくは21歳から40歳まで、ずっとLeeのジーンズを愛用していた。
何度も言っているが、21歳の時、ぼくは東京にいた。
ある日、友人と代々木の街を歩いていると、ジーンズの即売会をやっているのに出くわし、興味本位でその会場に入っていった。
狭いながらも、いくつかのブランドがブースを作っていた。
最初は何も買うつもりがなかったので、ただ店の中をぐるぐると回っていたのだが、あるブースの前でぼくは動けなくなった。
そこに、ぼくが長い間イメージし続けてきたジーンズがあったのだ。
そのブースこそが、Leeのコーナーだったのだ。

とにかくファンションに関しては疎いぼくだったので、Leeと言われてもピンと来なかった。
当時ぼくの頭の中にあったジーンズのブランドは、あのエドウィンだけだった。
そこで、ぼくは友人に尋ねた。
「おい、Leeっちゃ何か?」
「有名なブランドだよ」
「リーというくらいだから、香港か韓国のものか?」
「いや、アメリカ製」
「ふーん」
値段を見ると、1万円を超えているではないか。
今でもそうだが、1万円を超えた衣服などを見ると、ぼくは構えてしまうのだ。
「えらく高いのう」
「いや、安いよ。これは」
「でも、1万円を超えとるやん」
「でも、これはお買い得だよ」
「へえ、そうなんか」
ぼくはしばらく悩んだが、買うことにした。
「よし、決めた!」
「え、買うのかい?」
「おう。どうせ買おうと思っとったけ」
ぼくは、バイトで稼いだ1万ちょっとのお金を出し、店の人に渡した。

それから40歳になるまで、ぼくはLeeのジーンズを愛用した。
とはいうものの、Leeを買い足していったわけではない。
その時に買った1本を、19年間はき続けたのである。
会社にはスラックスをはかなくてはならなかったし、家ではジャージをはいていた。
そのため、遊びに行く時以外は、ジーンズをはくことがなかった。
つまり、買う必要がなかったのである。

さて、40歳を境に、ぼくはLeeをはかなくなった。
というより、はけなくなったのだ。
理由は、あまり言いたくないが、ウエストが合わなくなったのだ。
Leeを買った当時のウエストは79センチ、40歳時のウエストは86センチだった。
これではとうていはけない。
ジーンズのほうもかなり痛んでいたので、渋々捨てることにした。

その後、Leeをはくことはなくなった。
40歳から6年間に買ったジーンズといえば、サンバード(長崎屋)製、ユニクロ製、それと最近買ったVAN製の3本である。
いずれも5千円以下の安物である。
確かにLeeは長持ちした。
だけど、もうジーンズに何万円もかける気はない。



ズボンのポケット

ぼくのズボンのポケットの中は、いつもいっぱいである。
何が入っているかというと、右のポケットには家や車の鍵が入っている。
夏場はタバコとライターも入っている。
タバコはマイルドセブン・スーパーライトBOXである。
箱が角張っているので、どうしてもポケットは膨らんでしまう。
ライター。
愛用しているのは、3本組98円のライターである。
ぼくはZIPPOのライターをいくつか持っているのだが、使ったことはない。
オイルを入れるのが面倒であることと、ポケットに入れるとかさばるからだ。
ポーチか何かに入れて持ち歩けばいいじゃないか、と言う声もある。
しかし、ぼくはそういうものを持ち歩く習慣を持ってないし、基本的におっちょこちょいであるぼくのことだから、ついうっかりして、どこかに忘れてくるに違いない。

左のポケットには、千円程度入った小銭入れ。
お金はそれ以上持ち歩かない。
持っているだけ遣ってしまうからである。
つまり、自分へのセキュリティである。
夏場はその上に携帯電話も入れている。
これも、タバコと同じ理由からである。

後ろの左ポケットには、免許証入れ。
中には免許証・キャッシュカード2枚・クレジットカード2枚・メンバーズカード2枚、数々の領収書・本屋の請求書・お守り袋などが入っている。
なぜか刑事さんの名刺なんかも入っている。
そのため、革の免許証入れは、BOXタイプのタバコの箱より厚くなっている。
領収書や本屋の請求書に関しては、期限が来るまでは入れている。
大切なものなので、別の所に保管していたほうがよさそうなものであるが、ぼくの場合はそうではない。
家で保管する場所といえば、机の引き出しの中である。
しかし、ぼくの机の引き出しは開かない。
なぜなら、ぼくが大切だと思っているものがたくさん入っていて、詰まっているのである。
無理して開けようとすると、書類などはすぐに破れてしまう。
そういう意味で、免許証入れの中が一番安全なのである。

後ろの右ポケットには給料袋。
もちろん明細のみである。
これは給与明細を貰った時、入れるところがないので仕方なくそこに入れているだけのことで、別に深い意味などはない。
ズボンを履き替える時、どういうわけか、鍵や小銭入れと同様に、給与明細も替えたズボンのポケットに入れ直している。
給与明細などは1回しか見ないので、後は別に家に置いていてもいいのだが、その時は何も考えずに入れ直している。
ポケットから出すのは、その愚を悟った時である。
しかし、次の月になると、そのことを忘れ、同じことをやっている。

ふと思ったことだが、美空ひばりの『東京キッド』という歌の一節、「右のポッケにゃ夢がある…」は、右のポッケには何も入ってないということなのではないだろうか。
何もないから夢が持てるのだ。
給与明細や請求書なんかが入っていたら、夢を持てないだろう。



ひとりぼっち

 『ひとりぼっち』

 気がついてみればいつもひとりぼっち
 気楽につきあっていけそうな皆さんですがね
 振り向いてみれば誰もいなくなってね
 そんな毎日がぼくをつつんでる

 寂しいというのが本音なんだけど
 いつもひとりっきりで強がってみてね
 ひとりぼっちなんですね、もともとが
 そうそう、どこへ行ってみたってね

 だから今だけは笑っていましょうよ
 ね、今夜はとてもビールがおいしいんだから
 ひとりぼっちの部屋で乾杯してね
 青春、ああこれがぼくの青春でしょうよ

 寂しげな街がぼくによく似合う
 なんてかっこいいこと言っているけど
 つまりひとりぼっちのいきがりでしてね
 さよなら、また明日逢いましょうよ

  気がついてみればいつもひとりぼっち
  そんな毎日がぼくをつつんでる


最近、ここもお客さんがめっきり減り、寂しいサイトになったようだ。
ま、元々お客さんを呼ぼうというサイトではなかったんだし、そういう現状を気にせずに頑張ろうと思う。

しかし、考えてみれば、いつもぼくはこうなのだ。
上の詩の通り、気が付いてみたらいつもひとりぼっちなのだ。
泣き言でも負け惜しみでもなく、これがぼくの宿命なのだと思う。
19歳の頃に書いていた日記ノートのタイトルは『孤独と焦燥』であるが、それは、漠然とそういう宿命を感じ取っていたからだろう。

振り返ってみると、ぼくは小学生の頃から、いつもクラスの中心メンバーの一人だったが、そのわりには放課後や休日に、友人たちといっしょに遊んだ記憶というものをあまり持っていない。
いっしょに遊んでいたのは、ほとんど近所のガキである。
ま、別にぼくは除け者にされているわけではなかったので、気にはしなかったのだが、それでも休み明けの月曜日に「昨日○○達と、××に遊びに行ったっちゃ」などと聞くと、あまりいい気持ちはしなかった。

社会に出てからも然りである。
例えば、20代の趣味が中国思想や仏教思想だったというように、人とはちょっと違ったものに興味を持っていたため、同世代の話題について行けないことが多かった。
それでも、他人の趣味に合わせるようなことをしなかったので、そういう人たちとの溝を深めていった。
「しんた、あいつ変っとるけなぁ。考え方も年寄臭いし」
というのが、その当時のおおかたのぼくに対する印象だったようだ。
ところが、最近は逆にぼくの考え方が若返ってしまって、同世代の人たちとの溝が出来てしまっている。

そういう経験を繰り返していくうちに、いつしかぼくは、ひとりぼっちの宿命を持っているんだと思うようになった。
今の会社は中途採用であるが、どうも肝心の所で仲間はずれになっているような気がしている。
まあ、そういうことを気にしても何もならないことを知っているから、極力そのことは考えないようにしているのだが。



ショートホープ・ブルース(歌詞編 下)

9月になって、例の友人が「ポプコンに応募した?」と聞いてきた。
「いいや」
「どうして?」
「もう、あの歌はうたわん」
「え?」
「難しいんよ。おれにはとうてい歌えん」
「そうか。もったいない…」
ということで、その後『ショートホープ・ブルース』を人前で歌うことはなくなった。

それから10年が経った頃のことである。
ある友人から、「今度結婚するんよ。ぜひ弾き語りやってもらいたいんやけど」と言われた。
「弾き語りか…。拓郎の歌でいいか?」
「いや、しんたのオリジナルがいい」
オリジナルと言われても、ぼくがその頃人前で歌っていた歌は、すべて別れの歌ばかりだった。
「別れの歌しかないぞ」
「いや、あれだけオリジナルがあるんやけ、何かあるやろ」
その時、ぼくの頭に『ショートホープ・ブルース』が浮かんだ。
「ないことはないけど、ずっと歌ってない歌やし…」
「そうか。じゃあ、それ歌って」

「ショートホープ・ブルースか…」
ぼくは途方に暮れた。
10年以上も歌ってない歌である。
しかも、披露宴には200人以上の人が来るという。
渋々引き受けたものの、ぼくはその時から緊張してしまった。

とにかく練習である。
幸い、その当日勤めていた会社には、使っていないスタジオがあった。
ぼくは、仕事が終わったあとで、そのスタジオで練習することにした。
さすが10年のブランクである。
元々うまく歌えない歌が、さらにうまく歌えなくなっている。
それでも、毎日1時間以上は練習した。
家に帰っても練習で、結婚式までの2ヶ月間は、まさに『ショートホープ・ブルース』漬けだった。

そして当日。
午前中、ぼくは家で最後の練習をした。
ところが、その時不思議なことが起きた。
『ショートホープ・ブルース』を歌っている時、急に思考と体がバラバラになるような感じがした。
そのとたん、勝手に口が動き出した。
どこにも力が入ってない。
おそらくこういう状態を自然体と言うのだろう。
ぼくはそう思いながら、勝手に歌う自分の口を見ていた。

さて、いよいよ本番である。
やはり自信がない。
横に後輩が座っていた。
彼はかつてバンドをいっしょにやっていたメンバーで、この『ショートホープ・ブルース』を知る、数少ない人間の一人だった。
「おい、やっぱり他の歌をうたう」
と、ぼくが弱音を吐くと、後輩は「何言いよるんね。ちゃんとショートホープ歌って下さい」と言う。
そこで、ぼくは開き直った。
もう矢でも鉄砲でも持ってこい、といった気分だった。

「では、新郎のお友達を代表して、しろげしんたさんに歌ってもらいましょう」という無責任なMCの声と共にぼくは登場した。
「今日は何を歌ってもらえますか」
「はい、オリジナルで『ショートホープ・ブルース』という歌を」
「では、お願いします」

ぼくは歌い始めた。
昼間の状態がまだ続いているようで、勝手に口が動き出した。
意識は、そこにいる人、一人一人を見る余裕があった。
およそ4分後、歌い終わったぼくに待っていたものは、大きな拍手だった。
人前で歌って、これほど感動したことはなかった。
席に戻ると、友人たちがぼくに駆け寄った。
「しんた、よかったぞ」
彼らは異口同音に、ぼくの歌を讃えてくれた。

それ以来、ぼくは人の結婚式で歌を依頼されると、決まってこの歌をうたってきた。
なぜなら、生まれてからこの方、一番多く歌った歌であるからだ。
あいかわらず自分のものにはなってないが、練習の重みはどのオリジナル曲よりも勝っている。
その分、この歌の持つ独特の特徴や癖を熟知しているつもりである。
おそらくこの先も、この歌をうたっていくだろう。
いつか、「やさしすぎる君の頬」に再開する日のために。

ちなみに、歌のおにいさんに入っている『ショートホープ・ブルース』は39歳の時に録音したものである。



ショートホープ・ブルース(歌詞編 上)

前にも話したが、ぼくは高校時代から8年間想い続けた人がいた。
『ショートホープ・ブルース』を書いたのは21歳の時だから、その真っ最中に書いたということになる。。
当然、ここに出てくる『君』はその人のことだ。
その人のどこが好きだったのか?
まあ、そういうことは一概には言えないが、その要素の一つに頬というのがあった。
その頬を見ると、なぜか落ち着いた。
今で言う『癒し』ということになるだろうか。
その頬を見るたびに、優しくなれる自分がいた。
この歌詞は、そんな自分を思い出しながら作ったものである。

さて、歌詞と言うくらいだから、当然この歌詞には曲がついている。
あらかじめストックしてあった曲を引っ張り出して、この歌詞で歌ってみた。
数ある曲を引っ張り出してみたのだが、何か一つピンと来ない。
そこで、新たに曲を作ることにした。
モチーフはサディスティック・ミカ・バンドの『さよなら』という曲だった。
いろいろとギターコードをいじくりながら作った。
出来上がってみると、なかなかいい。
曲が出来た直後、「これは人に聞いてもらわないと」と思い、さっそくギターを持ち出して、代々木公園で歌いに行った。
ところがである。
歌のおにいさんを聴いてもらったらわかるが、この曲は派手な曲でない上に、ガンガンやる曲でもない。
そのため、あの広い代々木公園では誰一人見向きもしなかった。

数日後、何人かの友人の前で歌う機会があったので、この歌をうたってみた。
歌い終わったあと、「どうせ目立たん歌やし」などと悲観していると、友人の一人が「もう一度歌って」というアンコールがかかった。
二度目を歌い終わったあと、その友人が言った。
「この歌、いけるよ。ポプコンか何かに出してみたら?」
「そんなに良かった?」
「ああ。コード進行がユニークだ」

おれを聞いて気をよくしたぼくは、この曲でポプコンを受けようと思い立った。
ところがである。
この曲は単調な曲ではあるが、細かい節回しが所々にある。
そのため、歌うのが非常に難しいのだ。
もし、その節回しを適当にやってしまうと、この歌は生きてこない。
そこで、練習する必要が出てきた。
しかし、狭い下宿で練習をしていると、下宿のおばさんからは小言を言われ、他の部屋の人たちから白い目で見られる。
スタジオでも借りて、とは思ったものの先立つものがない。
考えたあげく、思いついたのはトラックの荷台であった。

当時、ぼくは運送会社でアルバイトをしていた。
帰りにいつもトラックの荷台に乗せてもらっていたのだが、そこでだったら、どんなに大きな声を出しても誰も咎めない。
ということで、トラック荷台はスタジオと化した。
バイトは3ヶ月半やったので、その間毎日荷台で歌っていたことになる。

ところがこの曲、歌えば歌うほど難しくなっていくのだ。
それまで歌ってきた曲はすべて消化出来ていたのだが、この歌だけはどうも消化出来ない。
そのうち、ぼくはこの歌をうたうことに嫌気がさしてきた。
バイトを辞めた頃は、すでに諦めていた。



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