頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう!

2003年02月

犬をどうにかしろ!

仕事が終わってから家に帰り着くのは、だいたい午後9時頃になる。
さすがにこの時間帯は、街灯やビルや工場の灯りがあるとはいえ、車道以外は暗く感じる。
特に住宅街を人が歩いている場合は、非常に見にくいものだ。

この間帰る途中でのこと、住宅街を運転している時、路肩で白い物が動いているのが見えた。
どうも生き物のようだ。
「犬か?」と思い、少しスピードを緩めて見てみると、予想どおり小さな犬だった。
その犬の横、歩道の上を人が歩いていた。
飼い主だ。
犬に車道を歩かせ、自分は歩道を歩いていたというわけだ。

ふと考えた。
もしこういう状況で、犬をはねたらどうなるのだろうか。
道交法違反で点数を引かれるのだろうか。
暗い夜道を、それも車道で犬を歩かせているアホな飼い主のおかげで点数を引かれることほど馬鹿らしいことはないだろう。
そういうことは別として、飼い主から「○○ちゃん、○○ちゃん…」などと言って目の前で泣かれ、罵倒され、賠償金を取られるのもシャクである。
そういうことにならないためにも、飼い主は安全な場所で散歩をさせるようにしてもらいたいものである。

それにしても、世の中には「この人は大丈夫か?」と疑問をいだかせるほど、生き物を溺愛する人がいる。
そういう人に限って、人づき合いが下手なように思える。
知り合いに大変な犬好きがいる。
その人のことをよく知らない頃のこと、その人がぼくに愛犬の写真を送ってきた。
別にこちらから送ってくれと言ったわけではなく、あちらが勝手に送りつけてきたのだ。
写真を見ると、その犬も世間一般の溺愛犬と同じように、服を着せられていた。
最初「かわいい犬やね」とお世辞を言ったのが間違いだった。
それで気をよくしたその人は、調子に乗って犬の写真を送ってきた。
こちらとしてはいい迷惑な話だ。
その人が自己中心的な性格で、周りの人とトラブルばかり起こしていると知ったのは、しばらくたってからだった。
相手は犬とはいえ、愛する心を持った人なのだから、もっと周りの人を気遣ってもらいたいものである。

スーパーに行くと、よく「衛生管理上、生き物の持ち込みはお断りしております」という放送がかかっている。
しかし、いるんですねえ、犬を持ち込む大馬鹿者が。
それも、抱えるなり、かごに入れておくのならまだしも、ふつうの散歩のようにひもにつないで歩かせている。
いったいどういう神経をしているのだろう。
おそらく飼い主には、「うちは人間と同じように育てているから、しつけもよく、大変衛生的です」などというような言い分があるのだろうが、しつけがよく、衛生的だと知っているのは、飼い主だけじゃないか。
いくら人間ふうに服を着せていようとも、犬は犬である。
どう見ても衛生的だとは思えない。
だいたいしつけのいい犬だからといって、店の中でおしっこをしないとでも言うのだろうか。
いいにおいがすれば、鼻を近づけてにおってみるのではないだろうか。
そういう無神経なお客は、特に若い人に多い。
お年寄りは、いくら小さなお座敷犬といえども、ちゃんと外につないで待たせているものだ。
英語で犬をしつける暇や、犬の服を作る暇があるのなら、まず自分たちが世間の常識やマナーを勉強しろ!



おはようさん

冬らしい雨は一夜で終わりました。
ひび割れた曇りガラスの隙間から、
朝のくたびれた陽光(ひかり)が洩れてきます。
「おはようさん」
ぼくは待ってます。
「おはようさん」
ぼくは待っています。



早起き

予告どおり、翌朝に書いている。
ぼくは小さい時から朝型の人間ではないので、こうやって、いわゆる朝と呼ばれる時間にパソコンの前に座っているのもけっこうきついものがある。
小学校の頃、夏休みの宿題にはよく「朝の涼しいうちにやりましょう」などと書いてあった。
もちろん朝型人間でないぼくは、やったことがない。
夏休みの朝、それは宿題やラジオ体操のためにあるものではない。
ぼくにとってそれは、寝るためにあるものだった。
前の晩に夜更かしし、翌日は9時10時に起き出し、テレビで『夏休みマンガまつり』などを見る毎日だった。
登校日、早起きの辛かったことといったらなかった。
で、宿題はいつやるか?
当然8月末にならないとやらない。

冬休みもいっしょだった。
昔は今よりも寒かった。
また暖房設備も今のように発達しておらず、火鉢とこたつくらいしか家になかったので、どうしても布団に執着する毎日を送るようになる。
そのため、夏休みよりも始末が悪く、起き出すのはいつも昼前だった。

春休みにしても、代わり映えなく、暖かい分少し早く起きた程度である。
まあ、春休みの場合は、夏や冬と比べると精神的に楽な面があった。
夏休みや冬休みは、「この世に宿題なんかない」といった毎日を送っていたものの、潜在的には「宿題をやらなければならない」という一種の焦りのようなものがあった。
しかし、春休みには宿題がなかったので、その焦りはなかった。
ただ惜しむらくは、春休みは、休みの期間が短かった。
そのため、夏や冬とは違った焦りがあった。
「後何日したら、早起きをしなければならない」という焦りである。

『早起きは三文の得』と言われるが、ぼくは早起きして得した覚えはない。
休みの日に遅くまで寝ていると、時間を損した気になることはあるが、早く起きたからといって決して得したという気にはならない。
眠い目をこすって嫌々起きるのに、何の得があるだろう。
布団の中という一種天国のようなところから、現実という娑婆、いや地獄に出なければならないのだ。
『早起きは三文の得』というのは、実は悪魔の言葉である。
文明の発達とともに夜更かしする人間が多くなった。
そのため悪魔は活動しにくくなってしまった。
「これは困ったことだ」と嘆いた悪魔は、一計を案じた。
欲張りな人間を見つけては、彼の耳元で「早起きすれば、儲かりまっせ」とささやくことにしたのだ。
ところが、世の中には実に欲張りな人間が多い。
一夜にして「早起きすれば、儲かりまっせ」という言葉が広まった。
この言葉をことわざ化するにあたって、「『儲かりまっせ』という表現はあんまりじゃないか」という意見が出たため、『早起きは三文の得』ということになったのだ。
有名なことわざだからといって、鵜呑みにしてはならない。
早起きする人間が多くなれば、その分悪魔が活動しやすくなるのだ。

ところで、先ほどちょっと外に出てみたのだが、実にすがすがしい朝である。
少し肌寒くはあるが、それが妙に心地よい。
今日は午後から曇りという予報が出ているものの、今のところは雲一つない青空が広がっている。
今日はきっと悪魔にささやかれている日なのだろう。
何か得したような気がする。



ナンバープレース

最近ナンバープレースというものにハマっている。
マスの中に、ダブらないように数字を入れていくパズルである。
文藝春秋や週刊文春を読んでいる人には、『数独』と言ったほうがわかりやすいだろう。
昨年の夏にプリンターを買ったのだが、年賀状を作るでもなし、デジカメで撮った写真をプリントアウトするわけでもなし、宝の持ち腐れ状態になっていた。
この頃、せっかくあるのに使わないのももったいない、と思うようになった。
じゃあ、何かプリントアウトしてやれと思い、いろいろ印刷する物を探していた。
そういう時、文藝春秋等でよくやっているこのパズルのことを思い出した。
そして、ネット上にあるこのパズルを印刷して、暇な時間にでも解いてみようということになった。
ところが、最近は暇な時間どころか、忙しい時にもやるようになってしまった。
というより、ナンプレをしない時間に他のことをやるようになったのだ。
テレビを見ていても、本を読んでいても、頭の中はいつもナンプレのことでいっぱいだ。
『あそこが9だから、ここには5か6が入ることになる。ということは、ここには7か8が入る』というようなことを考えているわけだ。

一昨日、取引先の人が来たのだが、商談の最中もナンプレのことを考えていた。
「しんたさん、今度新製品が出るので、この商品の処分をお願いしたいのですが」
「(ということは、あそこには8が入らんのか。うーん、わからん)あ、何か言うた?」
「いや、今度新製品が出るので…」
「ああ、新製品ならバイヤーに言うとって」
「いや、処分の件なんですが」
「え、何か処分せないけんと?」
「だからですねぇ…」
心ここにあらずである。
元々ぼくは、あまり人の話を聞かない質なのだが、何かに集中している時にはさらにひどくなる。
結局、この取引先氏は同じことを三度言わされる羽目になった。

ここ数日、日記の更新が遅いのも、このナンプレのせいである。
昨日書いた『宿題』と同じで、先に日記を書いてからナンプレをやればいいものを、ナンプレが終わってから日記を書くものだから遅くなる。
さらに、日記を書いている最中にもナンプレのことを考えているから始末が悪い。
昨日の日記の更新は午前3時を過ぎていた。
おかげで、今日はひどい寝不足で、体調は最悪だった。
しかし、それでもナンプレのことを考えている。
こうなれば、もう病気である。

さて、このナンプレ病はいつまで続くのだろうか。
とりあえず、今日は時間はかかったが、なんとか難易度4をクリアした。
明日は、難易度5に挑戦する。
おそらく、今日以上に時間がかかるだろうと思われる。
もしかしたら、そのせいで明日の日記の更新はその翌日になるかもしれない。
しかし、いくら時間がかかろうとも、難易度5はクリアしたほうがいいと思う。
そうすれば、熱しやすく冷めやすいぼくのことだから、サッとナンプレ熱が冷めるにちがいない。
まあ、仕事や健康に支障を来さないためにも、早く熱を冷ましたほうがいいだろう。


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ナンバープレース





宿題

小学校に行っていた頃、ぼくは宿題をいつも午後9時頃から始めていた。
「あんた、まだ宿題やってなかったんね。学校から帰ってすぐに宿題をすれば、後でゆっくり遊べるのに、何で早くせんとね」
当時母からよく言われた言葉である。
しかし、それは出来なかった。
なぜか?
それは、学校から帰ってから9時までが、ぼくのゴールデンタイムだったからだ。
帰ってからすぐというのは、友だちと遊ぶためのゴールデンタイムである。
友だちと遊んだ後の時間というのは、テレビでマンガをやるゴールデンタイムである。
風呂に入る、飯を食う、9時頃までダラダラとテレビを見る、というのは生活のゴールデンタイムである。
その間、宿題をやる時間というのはどこにもなかったのだ。

小学生の頃に一番嫌いだった宿題は、漢字の書き取りである。
この宿題が出ると泣きそうになったものだ。
しかし、今考えてみると、あんな簡単な宿題はなかった。
何せ、頭を使わなくていい。
ただ同じ漢字を10字とか20字とか書いていけば、それで終わりなのである。
では、そんな簡単なものが何で嫌いだったのか?
それは、書くペースが人よりも遅かったからである。
ぼくに手作業をさせると、とにかく遅い。
図工・習字・技術・家庭科などは、いつもろくな点数をもらえなかった。
その理由は、作品を作るのが遅かったからだ。
ほとんど時間内でやりあげたことはなかった。
そのため提出するのはいつも未完成作品で、提出しないこともままあった。
そういう理由から、午後9時から始めた漢字の宿題が終わるのは、だいたい11時を過ぎだった。
おかげでぼくは、小学生の頃には、既に寝不足に悩む人間だった。

苦手ではなかったが、面倒くさい宿題もあった。
算数の分数や小数点の計算である。
算数ドリルには、「これでもか」というくらい計算問題が載っていた。
計算は速かったが、おっちょこちょいだったのでポカが多かった。
そのため、検算という面倒な作業をしなくてはならない。
検算には時間がかかったものだ。
間違いを見つけると、また計算をやり直さなければならない。
これが嫌だった。
せっかく書いたものを、消しゴムで消すというのもむなしいものである。
また、最初の計算が正しくて、検算のほうが間違っている場合もあったが、その時の悔しさと言ったらなかった。
悔し紛れに消しゴムを投つけて、物を壊したことも一度や二度ではない。

たまには好きな宿題もあった。
社会科である。
ぼくの社会科に対する情熱は、並々ならぬものがあった。
趣味とも言ってよかった。
いまだになぜ社会科が好きだったのかはわからないが、おそらく一番現実味のある教科だったからだろう。
先生が通信簿に「他の授業の時は落ち着きがなくふざけてばかりいますが、社会科の時間だけはまるで人が違ったようになります。とにかく目の色が違います」と書いたほどだった。
それだけ好きだった社会科だから、宿題はすぐに終わった。
あまりにも早く終わるので、時間をもてあましてしまい、予習までやっていたものだ。

とはいえ、全般的にぼくは宿題というものが嫌いだった。
その後遺症か、今でも仕事を家に持ち込むことをしない。
前の会社で、よく上司から「家でやってこい」と言われていたが、決して家に持って帰るようなことはなかった。
何時になろうが、会社に残ってやったものだ。
今ならなおさらである。
もし、会社から宿題などを出されたら、この日記が書けなくなる。
そういえば、ぼくがもし日記を書く情熱をなくしたら、この日記もただの宿題になってしまう。
それだけは避けなくては…。



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