頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう!

2003年01月

病気である

この2年間、仕事の日であろうが、休みの日であろうが、毎日毎日「今日は何を書こうか」と思っている。
もはやぼくには、それしかないといった感じである。
と言うより、病気である。

今日は休みだったが、相変わらずぼくは、いつもと同じように「今日は何を書こうか」と思っていた。
気が休まる暇がないのだ。
時間がたてばたつほど、この「何を書こうか」というのが強迫観念になってくる。
落ち着かない。
焦りだす。
頭の中はずっと、
今日は何を書こうか?
今日は何を書こうか?
今日は何を書こうか?
である。

さて、今日はドコモショップに行ってきた。
FOMAの機種変更(FOMAの場合『買増し』と言うらしい)のためだ。
先月FOMAの契約をしたのだが、早くも機種変更のお知らせがあった。
新規の時も破格値で買ったのだが、今回の機種変更もかなり安く手に入った。
前回行った時は、お客が多く待たされた上、機種変更に手間取ったので、かなり時間がかかった。
そういうことがあったので、お客の少ない午前中を狙おうと、今日は早めに家を出ることにした。
読みがあたった。
着いてみるとお客は少ない。
それに、FOMAの手続きはムーバよりも簡単である。
あくまでも買増しであるから、機械をもらえば終わりなのだ。
端末情報を移し換える必要もない。
前の機種からFOMAカードを取り出して、新機種に装着すれば使えるようになる。
これくらいは自分でも出来る。
しかし、自分でやると多少面倒な作業が残っている。
電話帳等の、データのコピーである。
確かにデータコピーも自分でやろうと思えば出来ないことはないが、400件近くも電話帳に登録しているので、手動でやると大変な労力を要してしまう。
以前は電話番号だけだったが、最近はメールアドレスも入っているので、なおさらである。
しかも、ドコモショップに行く前から「今日は何を書こうか」と思っている病人だから、そんな時間は取れない。

そこで、ドコモの人に甘えることにした。
「すいません。データのコピーをしてください」
「ああ、コピーですね。いいですよ」
そこから歯車が狂い始めた。
コンピュータを使うので、データコピーは5分もかからない。
ところが、10分たっても、20分たっても出来ないのだ。
「しんたさん、すいませんが、ちょっとソフトの調子がおかしくて、もう少し時間を下さい」
単に早く帰りたかっただけで、特に用事はなかった。
ぼくは「いいですよ」と返事をした。
そこからまた10分、20分が経過した。
そして1時間が過ぎた頃、また「しんたさん」とお呼びがかかった。
「どうもだめみたいです」とのことだった。

午後2時に家に帰る。
それからずっとデータの入力をやっている。
新聞も読まず、テレビも見ず、ずっとそれに没頭している。
今午前1時を過ぎたところだが、まだやっている。
半分以上は使ってないので、別に全部入れる必要もないのだが、ぼくはこういうことをやる時は妥協しない、と言うより変にムキになる。
しかも、それをやりながら「今日は何を書こうか」と思っている。
それも、ムキになって思っている。
病気である。



新聞を読んで

『朝日新聞、北朝鮮に叱られる』
今日の朝刊に、北朝鮮の労働新聞が、朝日新聞が「北朝鮮」という呼称を使うことにケチをつけた、という記事が載っていた。
そういえば、最近は以前のように「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)」という呼称が使われなくなった。
そのほうが聞きやすいし、見やすい。
大韓民国を韓国、中華人民共和国を中国、中華民国を台湾と呼び慣わしているのだから、北朝鮮だけがそんなことで目くじらを立てなくてもいいと思うのだが。

しかしこの記事の面白さは、そんなところにあるのではない。
いろいろなマスコミが「北朝鮮」呼称を使っているのに、なぜ朝日だけにケチをつけるのか、という点にある。
この北朝鮮のコメントは、一マスコミに対しての非難ではなく、配下に対する一喝である。
以前は、帰国事業の片棒を担ぎ、拉致問題にも知らん顔し、テポドンが飛んできた時も「人工衛星の実験でよかった」とまで書いて胸をなで下ろし、金正日が拉致を認めた後も相変わらず北朝鮮擁護をし、北朝鮮のお抱え新聞やチョウニチ新聞とまで呼ばれた朝日である。
そう受け止められても仕方ないだろう。
北朝鮮の発言は、「今までいろいろと世話をしてやったのに、いい加減にしとけよ」というお叱りの言葉だったのか、はたまた「これまでどおりに擁護してくれよ」という意思の表れだったのか、そのへんはわからない。

『靖国神社参拝』
西日本新聞が、1月14日に小泉首相が靖国神社を参拝したのを受けて、市民の反応を調査したらしい。
以前なら、靖国絡みの話は「反対」「反発」意見が目立っていたらしいが、今回は「日本人として自然な行為」「当然」と受け止める意見が、批判の声を圧倒していたという。
記事は「日本人の国家観や安全保障への意識は、確実に変わりつつあると肌で感じる」と続き、最後に「新聞をつくる側もバランス感覚がいっそう問われる時代になった」と締めくくっている。
はっきりしない記事である。
だいたい、新聞というのは「始めに姿勢ありき」ではないのだろうか。
その姿勢を底辺に置いて展開するからこそ、その新聞の色も出てくるのだと思う。
読者や世論の意見でコロコロと姿勢を変えられたら、安心して読めないじゃないか。
せっかく「これは」と思って取りだした新聞なのだから、朝日みたいな優柔不断はやめて欲しいものである。

だいたい、靖国関係の記事は「昨日、首相が靖国神社に参拝しました」で終わればいいことであって、それにいろいろコメントをつける必要はない。
今日、ダイエーホークスが筥崎宮に必勝祈願をしに行ったが、それについて「神聖なスポーツに宗教を持ち込みやがって」などというコメントは一つも書いてない。
受験シーズンだが、太宰府天満宮に参る受験生の記事は出ているが、そこに「受験に宗教はいらない」というコメントはない。
なぜか。
それだけ、神社というものが生活に密着したものだからだ。

また戦犯についてもとやかく言われるが、それを言うなら出雲大社にも参ることが出来なくなる。
大和朝廷側から見れば、大国主命は戦犯なのだから。
戦犯とはあくまでも勝者側の見方に過ぎない。
そもそも東京裁判自体が無効だと言われているのに、戦犯も何もあったもんじゃないだろう。
もしそれでも戦犯を求めるとしたら、ぼくは蒋介石とルーズベルトと中国共産党を推挙する。
あの戦争は、彼らの思惑に日本が振り回された戦争だったからだ。

ま、ともあれ、首相は来年も靖国神社に参拝するということだから、やっとこれで日本も元通りになってきたなと思う。
あとは、野中や菅が首相にならないことを望むだけである。



気楽な展望

明日も寒いらしい。
ということで、今日も早く書いて、早く寝ることにしよう。

とはいうものの、最近ネタ詰まりというか、頭が回らないというか、パソコンの前に座っても、テーマが決まらないことが多い。
今日もご多分に漏れず、ネタなし、テーマなし状態でパソコンの前に座っている。
さて、何を書こう。

昨年の今日は、ギターのこと書いてたんだった。
そういえば、最近はギターも弾いてないなあ。
まだ指は動くんだろうか。
仮に指は動いても、指先の皮膚が柔らかくなっているから、そう長い時間は弾けないだろう。
風邪を引いて以来、歌も歌ってないし、いまだくすぶっていたシンガーソングライターの夢もここで途切れる、ということか。
食うことに困った時、ストリート・ミュージシャンという手段を残していたが、それもそろそろ没にしたほうがいい。
もしそういう状況になったら、ストリート詩人にでもなろう。
詩を色紙なんかに書いて売るとか、駅前で大声出して詩を朗読するとか、見知らぬ人に「あなたへの詩を作ります」なんて声をかけるとか、『詩人』と書いたプラカードを提げて歩くとか、チョークを持って道いっぱいに詩を書くとか、やり方はたくさんあるだろう。
その際は本名を伏せて、新しいペンネームを考えよう。
あの色川武大みたいに、いくつかのペンネームを使い分けてみるのも面白い。

ペンネームといえば、二十歳の頃ぼくが使っていたペンネームは『山原ほうぼう』だった。
この名前を使って、ある雑誌に詩を投稿したことがある。
が、結果は「年会費をお支払いいただければ掲載します」というものだった。
この時は、年会費が払えなかったのでやめた。
その次に使ったペンネームは『条一郎』だった。
このペンネームでは何度か雑誌に載った。
しかし、掲載はされるものの、それ以上のものがなかった。
結果、サラリーマンを選択することになる。
それからは、ペンネームを考えるのが面倒になって、本名で投稿するようになった。
しかし、今度はまったく掲載されなくなった。
名前より中身が大切なことは重々わかってはいるが、せっかくやってきた姓名判断をここで活かさない手はない。
『しろげしんた』はわりと字画がいいから、投稿に関してはこの名前を使ってみようと思っている。

さて、その投稿のほうだが、詩や短歌は公募が少ない。
といって、公募数の多い小説なんかは、万年ネタ切れのぼくには無理がある。
ということで、エッセイに挑戦しようと思っている。
今までこの日記で書いたことをまとめていけば、なんとか形にはなるだろう。
あとは、根気と運だけだ。
下手な鉄砲作戦をずっと続けていけば、どこかで拾ってくれるだろう。
仮にそれで何らかの収入が得られるようになったら、しめたものである。

もしリストラなんかにあって食うことに困ることになれば、新しいペンネームでストリート詩人をやりながら、『しろげしんた』名で投稿生活をやっていこう。
ぼくの姓名判断が正しければ、きっとうまくいくはずだ。
東京に別邸を持つのも夢じゃない。
しかし、そうなるまでには時間がかかるだろうから、それまでは新聞配達やコンビニの夜間店長などをやりながら食いつないでいこう。
リストラ恐るに足らずである。



明日も寒いらしい

 夜深く、雪の白く降り積もり
 街はなお寒く、夢はまだ遠く

 風強く、服の隙間をさして
 身は重く辛く、後姿寂しく

  揺れる春の日は遠く
  待ちわびた花のつぼみ涙を落とし
  昨日までの明るい笑顔
  また今日深く暗く沈み

 凍りつく、濡れた道あてもなく
 うつむいた人が、声もなく続く

19歳の頃、大学の入試試験から帰ってくる時に雪が降りだした。
雪は見る間に道を覆い、水たまりは早くも氷り始めていた。
その日に作った詩である。
生まれてこの方、あの日ほど寒い思いをしたことはない。
少し風邪気味で体調は優れず、受験の失敗を自覚していたから気分的に落ち込んでいる。
そういう状態の時に、突然襲いくる寒波。
風はビュービュー吹き、服の隙間を刺してくる。
傘を持たない身に、雪は容赦なく降りかかる。
その後、何度も寒い日はあったが、肉体的、精神的に落ち込んではなかったから、あれほどの寒さを感じたことはない。
おそらく、凍死でもしない限り、あのような寒さを体験することはないだろう。

とはいえ、今日は寒い。
昨日の天気予報で、「明日は一日、冷蔵庫の中にいるような状態でしょう」と言っていたが、その通りで、今日の最低気温は2、1度だった。
昨日が8、9度だったから、その差6、8度、この温度差は風邪がまだ完治していない身には辛い。
明日はまだ寒くなって、最低気温は-1度だという。
どうも今年の冬は、ぼくを殺そうとしているらしい。

さて、明日もしも雪が積もっていたらどうしよう。
前回の積雪の時は、通れなかった箇所はあったものの、日曜日だったこともあり、渋滞はしなかった。
しかし、明日はウィークデイだ。
九州道や都市高速はもちろんストップするだろうから、当然大渋滞が予想される。
そうなった時、一番被害を受けるのがぼくの住んでいる地域だ。
雨の日でさえ渋滞するのに、雪ならなおさらである。
また3号線に出るまでに一苦労するだろう。
この間、トラック故障のために、5分で抜けられる道が40分もかかった。
明日もそのくらいの時間を予定しなくてはならない。

もし道路が凍結などしていたら、JR通勤ということもあり得る。
うちからJRの駅までは、歩いて10分。
途中、吹きざらしのだだっ広い道を歩いて行かなければならないから、地獄である。
途中で咳き込みでもしたら、どうしよう。
寒さと強い風で、しばらく治まらないだろう。
その拍子に、こけるかもしれない。

まあ、夜中にいろいろ案じてみても仕方がない。
すべては夜が明けてからのことだ。
少し早起きしなければならないから、今日はこの辺で終わることにする。



数々の勲章

長い間開けてなかった、古い書類入れがある。
今日何気なく開いてみたら、引き出しの一つに、その存在さえ忘れていた写真が入っていた。
量にすると100枚程度で、生まれて9ヶ月目のものから30代後半までのものが無造作に入れてある。
5歳頃の実家付近や、昭和40年代の小倉駅など、今となってはもう見ることの出来ない風景がそこにある。
また、ぼくの記憶の中には存在しない、ステージで弾き語りをやっている姿や、喜多方ラーメンの旅の記録がある。
つい懐かしくなって見入ってしまった。

写真を見ているうちに、一つの疑問がわいてきた。
それは、その中にある一番古い写真を見た時だった。
どこをどう見ても今の顔に結びつかないのだ。
今の顔に当時の面影が残ってないと言ってもいい。
まず顔の形が違う。
今のぼくの顔は、似顔絵のように長めの顔であるが、その写真の顔は丸顔に近い。
目が違う。
その後の写真を見るとどれも目が大きいのだが、その当時はかえって小さく感じる。
近々スキャナーが手に入る予定なので、そのうちこのサイトで、その写真を公開しようと思っている。
今のぼくを知る人は、おそらく別人だと思うだろう。

それにしても白黒写真の多いこと。
20歳ぐらいまでの写真は、もちろんカラーもあるのだが、圧倒的に白黒である。
そこにある一番古いカラー写真は6歳の頃のもので、それ以降高校2年までは白黒しか存在しない。
高校2年の時の写真は、夏休みに鹿児島・宮崎に行った時のものである。
その後20歳までの写真は、また白黒ものになっている。

ところで、そのカラー写真だが、意外なことに気がついた。
6歳の時の写真のほうが、高校2年つまり17歳の写真よりも質がいいのだ。
これはどういうわけだろうと考えていたが、ふと思い当たることがあった。
ぼくが17歳の時といえば、1974年である。
1974年といえば、オイルショックの翌年である。
オイルショックの時、何があったか。
そう、紙不足だ。
トイレットペーパーが、店頭からなくなっていた時期だ。
その影響は出版業界にも出ていた。
73年版の『ノストラダムスの大予言』という本をいまだ持っているのだが、その紙の質の悪いこと、ほとんどわら半紙状態である。
あの頃は、紙と名がつくもの、すべての質が悪かったのだ。
写真にも影響が出るのは当然である。

そう考えると、鹿児島写真は、その時代を反映しているということになる。
これは大きな発見だ。
ぼくは今まで自分の写っている写真を、白黒でしか残ってないとか、色が悪いなどという理由からあまり見ることはしなかった。
しかし、そういう質の悪い写真こそが、確かにあの時代に生きたという証である。
いわば勲章である。
そうやって見ると、ぼくはずいぶん勲章を持っていることになる。
これからは、そういった勲章の数々を、このサイトで紹介していくことにしよう。



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