頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう!

2002年09月

退職前夜 その4

会社に、みんなから「バカチョー」とあだ名されている課長がいた。
やたら部下を怒鳴り散らしている人間だった。
彼は店長の腰ぎんちゃくだった。
自分の考えは何一つ持たず、すべて店長の言うがままだった。
そういう男だから、当然ぼくに対しても風当たりが強かった。

翌9月28日、いつもと同じように、ぼくは開店前の掃除をしていた。
すると、「おーい、しんたぁ」という大きな声がした。
バカチョーである。
「こら、お前、何で商品をこんなに乱雑に置いとるんか!」
隣の売場である。
いちおうぼくが管轄していたのだが、その売場の責任者は他にいるのだ。
「そっちはいいから、こっちをやれ!」と、バカチョーはえらそうに言った。
普段、こういう時は「また始まった」と知らん顔をしているのだが、その時ばかりは対応を変えた。
「ああ、わかりましたっ!」と、バカチョーに負けないくらいの大声で返した。
そして、「そんなに頭ごなしに怒鳴らんで下さい」と言った。
バカチョーはムッとした顔をして、「何をー」と言った。
「それよりも、早くおれの後継者を決めたほうがいいんじゃないですか」
「えっ?」
「おれ辞めますから」
「は?」
「辞めると言ってるんです」
「おれに言うな。おれは知らんぞ。そんなことは店長に言え」
「『おれは知らん』じゃないでしょう。課長が直接の上司なんですから、ちゃんと店長に伝えて下さい」
「知らん」
そう言って、バカチョーはその場から逃げて行った。

その日一日、バカチョーはぼくを避けていた。
翌日、ぼくはバカチョーを捕まえて、「昨日の件、店長に言うてくれたでしょうね?」と聞いてみた。
「いや、まだ言ってない」
「ちゃんと言うて下さい!」
バカチョーは怯えているようだった。
「部下に辞められるということは、管理能力が欠けている証拠だ」と店長に受け止められる、とでも思っていたのだろう。
しかし、ぼくは妥協しない。
バカチョーと顔を合わすたびに、「言ってくれましたか?」と聞いた。
バカチョーもついに観念して、「棚卸が終わってから、言うとくわい」と言った。

翌30日は棚卸だった。
棚卸は、いつも営業時間が終わってからやっていた。
ぼくの部門はCDなど細かい商品を扱っていたため、けっこう時間がかかった。
その日棚卸が終わったのは、午前0時を過ぎていた。
帰る時、ぼくはバカチョーに声をかけた。
「課長、言ってくれたでしょうね」
「今日は遅いけ、明日言う」
「じゃあ、明日必ずお願いしますよ」
そう言って、ぼくは帰った。

翌日、ぼくは店長に呼ばれた。
バカチョーもいっしょだった。
「課長から聞いたんやけど、お前辞めると言ったらしいなあ」
「はい、言いました」
「いつまで、ここにくるつもりか?」
「今月いっぱいです」
「・・・」
「辞表はあとで提出しますから」
「・・・」
店長はそのあと、一言も口を利かなかった。
その後、会議の席上などでは相変わらずぼくを罵倒していたが、マンツーマンでは話を一切しなかった。
このまま辞めるまで、店長と話さないでくれたら楽なのにと、ぼく思っていた。

ところが、思わぬところから、店長とマンツーマンで話さざるをえない状況がやってきた。
棚卸の結果が出て、ぼくの部門が多額の商品ロスを出してしまったのだ。
その部門はオープン当初から、いつも多額の棚卸ロスを出していた。
CDという商品の性格上、盗難にあうんだろう、と誰もが思っていた。
しかし、ぼくが調べた結果、原因は盗難にあるのではないことがわかった。
その原因とは、本社の仕入れ管理のずさんさだった。
実際の仕入額と、電算上の仕入額がいつも違っていたのだ。
その差額は、毎月何十万円にもなった。
棚卸は半年に一度だから、いつも多額のロスが出てしまう。
本社に何度か「おかしいから調べてくれ」と掛け合ったのだが、「電算が正しい」というようなことを言われ、全然相手にしてくれなかった。
今回の棚卸ロスにも、そういう背景があったのだ。



退職前夜 その3

ここまで読まれた方は、ぼくが退職に至った理由が、会社への幻滅感と店長との不仲にあると思われるかもしれない。
確かにそれもあるのだが、もしそれだけだとしたら、ぼくは遠の昔に会社を辞めていなければならない。
いつまでたっても増えない収入に、幻滅感を抱いたこともある。
ぼくがその会社に入社して5年間は、とても人に言えるような収入ではなかった。
5年たって少しは改善されたが、それでも世間一般の収入ではなかった。
また、その店長と同じくらい仲の悪かった店長もいる。
その時の店長から左遷されたこともある。
それを聞きつけた大手スーパーDが、「うちに来てくれ」と言ってきた。
しかし、ぼくは辞めなかった。
創業以来勤めている会社に対して、強い思い入れがあったからだ。
希望もあった。
だから、そのくらいのことで辞めたくはなかったのだ。
「もう少し我慢すれば、必ずよくなる」
その思いが、ぼくを会社に居座らせた。

しかし、創業して10年たったのに何も改善されない。
逆に労働時間は増えていくし、ろくでもない店長は来るし。
ぼくはだんだん先が見えなくなっていった。
しかもその間、同期の人間が次々と辞めていく。
おそらく彼らもぼくと同じ考えであったに違いない。
一人辞め、二人辞めしていくうちに、ぼくの「希望」も危ういものになっていった。
そういう時、あのクレーム事件が起きたのだ。

それからしばらくして、ぼくを退職に走らせる決定的なことがあった。
それは、先に会社を辞めていた一人の先輩からの電話だった。
「おい、しんたか」
「はい」
「お前、まだ会社におるつもりか?」
「は?」
「おれなあ、悪いうわさを聞いたんやけど」
「何ですか?」
「お前たち10年生は全員飛ばされるぞ」
「え?」
「ある人から情報が入ったんやけど、片田舎の店に転勤になるらしい。もし断ったら、辞めないけんようになるらしいぞ」
「・・・」
「そのために今の店長が行ったらしい」
ぼくは呆然とした。
その先輩の情報が確かだとしたら、今までの経緯からして、ぼくが真っ先に飛ばされるだろう。
ぼくは親を見ないとならないので、転勤など出来ないのだ。
ということは、辞めるしかない。
ぼくはこの時、初めて「辞めよう」と思った。
どうせ辞めさせられるのなら、こちらから先手を打とう。
さもないと、もし辞めさせられたら、ぼくはそのことを一生引きずっていくことになるだろう。
まさに「プライドが許さん!」である。

この先輩情報を「ガセネタ」とみることも可能だった。
しかし、あの店長のことである。
前に、その店長が以前いた店でも、何人もの人を飛ばし、何人もの人を辞めさせたと聞いたことがある。
「ここは情報どおりに捉えておいたほうが無難だ」とぼくは思った。
はたしてこの判断は正しかった。
ぼくが辞めてから1ヶ月ほどして、会社に残っていた同期の人間が、関東行きの辞令を受けたのだ。
彼は断った。
そして、転勤の日に会社を辞めたという。

さて、退職を決断したぼくは、辞めるタイミングを計っていた。
そういう時、あの歴史に残る大型台風がやってきた。
9月27日だった。
後日、青森のりんごを壊滅させた、台風19号が北九州を通過したのだ。
付近の百貨店や商店は早々と店を閉めたのだが、うちの店だけは定時通り営業を行った。
電車やバスは当然運休になり、ぼくは帰る手段をなくしてしまった。
どうしようかと迷ったあげく、ぼくは店の近くで働く高校の同級生に電話をかけた。
「しんたやけど」
「おう、どうした?」
「帰れんくなったけ、飲み行こうや」
「いいよ」

ぼくは、友人といつもの店で待ち合わせた。
ぼくが店に着いてからしばらくして、友人はやってきた。
いつものように馬鹿を言いながら飲んでいると、突然友人が真顔になって、「しんた、今の仕事辞めたいと思わんか?」と言った。
「どうした?」
「おれ、今まで我慢してきたけど、もう限界だ」
いろいろ友人の愚痴を聞かされた。
そこで、ぼくは言った。
「じゃあ、辞めようや。おれも辞めるけ」
「しんたも?」
友人は唖然とした顔をしていた。
「で、しんたはいつ辞めると?」
「早いほうがいいやろ」
「そうやのう」
「明日辞めようや」
「じゃあ、そうするか」

そういうことで、ぼくたちは翌28日に、各々の会社に退職の意思を伝えた。



退職前夜 その2

もう少し、店長の話を書いておく。
元々、ぼくと店長は折り合いが悪かった。
話はその半年前、平成3年の3月にさかのぼる。
それまでいた店長が本社取締役に復帰することになり、新任の店長が来ることになった。
3月末、旧店長最後の日に歓送迎会が行われることになり、ぼくが幹事をすることになった。
一次会も終わりに近づき、いよいよ幹事最後の仕事となった。
それは二次会の参加を促すことだった。
「これで一次会を終了します。続いて二次会を、○○町の××で行いますので、皆さん奮って参加して下さい」とぼくは言った。
これで幹事の仕事が終わり、ぼくは二次会会場へと向かった。

ところが、である。
二次会の会場には、肝心の新店長の姿がなかった。
一次会の時新店長の周りにいた、下請けの社長連も来ていない。
ぼくは言い忘れたかと思い、そこにいた人間に確認した。
「おれ、ちゃんと場所言うたやろ?」
「ああ、言うたよ」
「何で店長来てないんかのう」
「さあ?でも、今までの店長とは仲が悪いらしいけ、気にせんでいいんやない」
その言葉に安心した。
そういうことなら、別にこちらが気を回す必要もない。
あちらはあちらで適当にやっているんだろうと思い、ぼくは酒を飲み始めた。

それから一時間ほど経った頃に、二次会会場に電話が入った。
「おい、しんた。電話ぞ」
「あ?」
「幹事を呼べ、と言いよる」
誰だろうと電話に出てみると、新任の店長だった。
「おまえが幹事か?」
「はい」
「名前は?」
「しんたといいますけど」
「おう、しんたか。お前よくもおれの顔に泥を塗るようなまねをしてくれたなあ」
「は?」
「どうして二次会の場所を教えんか」
「ちゃんと言いましたけど」
「何、言っただとぉ。おれは聞いてないぞ」
ぼくはわけがわからないまま、とりあえず「すいません」と謝ってから、二次会の場所を教えた。
しかし、腑に落ちない。
二次会の場所を知らない人間が、どうして二次会の場所に電話をかけてくるんだろう。
新店長は「今からそちらに行くから待っとけ」と言って、電話を切った。

しばらくしてから、店長一派はやってきた。
新店長は店に着くなり、大きな声で「誰がしんたか?」と聞いた。
ぼくは手を上げ、「はい、自分です」と言った。
「おまえがしんたか」
新店長はそう言ってぼくの席にやってきた。
そしてぼくの頭を2,3発叩いた。
「おまえのおかげで、どんなに恥ずかしい思いをしたと思っとるんか!お前は、おれと○さん(旧店長)の仲を知らんのか!?」
「はあ・・・」
「○さんはおれの恩人なんぞ。恩人の送別会におれが出らんかったら、世間の笑いものになるやないか!」
「すいません」
「覚えとけ。これからずっとお前には仕打ちをしてやる」
まるでヤクザである。
ぼくはもう一度「すいません」と言うと、新店長は「いいか、忘れるなよ」と言って、自分の席に戻った。

二次会は他の店の店長たちも来ていたのだが、みなぼくに同情して「しんちゃん、気持ちはわかるけど、ここは馬鹿になっとき。あとの相手はこちらでするけ」と言ってくれた。
旧店長も「あんまりしんたを責めんでくれ」と言っていた。
その後会は盛り上がったが、ぼく一人面白くなかった。

会も終わりに近づいた頃、新店長と行動をともにしていた一人の下請けの社長がぼくのところにやってきた。
そして、「しんた君、実は二次会の場所、新店長は知っとったんよ」と言った。
「やっぱり」
「まあ、あの人はあの人の考えがあってしたことなんやけ、今日のことは忘れたほうがいいよ。本人もああ言いながらも、大して気にしてないと思うよ。後はおれたちが悪いようにはせんけ」
そう言ってくれたが、ぼくの気持ちは晴れなかった。
だいたい人の頭を叩くというのは何事だ。
あの本能寺の変も、信長が光秀を衆目の中で罵倒し、頭を鉄扇で叩いたことから始まったと言われている。
それほど頭を叩かれるというのは、屈辱的なことだ。
ぼくは怒りとともに、この先こんな奴といっしょにやっていくのかと思うと、目の前が真っ暗になった。

下請けの社長の言葉とは裏腹に、その後も新店長はことあるごとにぼくを罵倒した。
例の件があるし、ぼくは風貌がボーっとしているように見えるので、それも気に入らない要因になっていたのだろう。
頭を叩かれることもあった。
ある時、ぼくが商品の清掃をしている時、突然店長が目の前に現れ、「何をボーっとしとるか!?」と言った。
そして、頭を一発叩いた。
ぼくは「この野郎」と思い、店長を睨みつけた。
しかし、口を開くことはせず、じっと耐えていた。

ぼくと店長の間には、以上のようないきさつがあった。
しかし、ぼくも黙ってばかりはいなかった。
その後、反撃に出るのだ。
そのせいで店長はサラリーマンとしての致命傷を負うことになる。



退職前夜 その1

前の会社にいた時は、今の会社よりもずっと休みが少なく、一週間に一度休めればいいほうだった。
その会社は、朝が早く、さらに夜も遅くまで働かなければならなかったので、疲れは今の会社の比ではなかった。
しかも疲れは体だけではなかった。
責任も今よりずっと重かったので、心労も重なる。
ということで、たまにある公休日は死んだように眠っていた。
しかし、休みの日にも会社からひんぱんに電話がかかってくる。
「今から出て来い」ということがしばしばあった。

前の会社を辞める2ヶ月前、平成3年の9月初旬のことだった。
ぼくがエアコンを紹介販売したお客さんから、クレームが来たことがある。
その日ぼくは休みだったのだが、午後4時頃店長から電話が入り「今から来てくれ」と言う。
ぼくは嫌々ながら会社に行った。
会社に着くと、まだそのお客さんはいた。
お客さんはぼくに「しんたさん、休みのところわざわざすいませんねえ。配達の人の応対が悪くてねえ。悪いけど、この間買ったエアコンはすべてキャンセルさせてもらうから」と言った。
そのお客さんは大口で、各部屋に1台ずつ、さらにそのお客さんがやっている事務所にもエアコンを付けたため、総額は200万円を超えていた。
200万円もキャンセルされたら一大事と、店長は慌ててぼくに電話してきたのだった。

とりあえず、ぼくはお客さんにクレームになったいきさつを聞いてみた。
その日は工事の日だった
朝一番に取り付けサービスのほうから電話がかかったらしい。
「今日の工事の件ですが、お昼からになりますが、ご都合のほうはよろしいですか」
「ああ、お昼からですか。わかりました。よろしくお願いします。あ、それと、悪いんですが、来る時にパテを余分に持ってきてもらえませんか」
「パテですね。わかりました」
そう言って電話を切った。
ところが、電話をかけた者が、パテの件を工事の人に伝えてなかったのだ。
お客さんが工事の人に「パテを下さい」と言うと、工事の人は「パテですか?さしあげるほど持っていません」とぶっきらぼうに言った。
「さっき電話で言ったんですけどねえ」
聞いてないなら聞いてないで、その場で電話するなりして確認すればよいものを、その工事の人は強い口調で「聞いてませんよ!」と答えた。
それでお客さんが切れたのだった。
「もういい。帰ってくれ」ということになった。
工事の人が帰ってしばらくしてから、お客さんが店に乗り込んできたのだった。

このお客さんのクレームはこれが初めてではなかった。
ぼくが契約の話を詰めている時にも、エアコンの売場の者とトラブルを起こしたことがある。
その日はちょうど台風が接近している時で、激しい暴風雨の中、ぼくはびしょ濡れになってお客さんの家に謝りに行った。
その誠意を認められて、何とか契約までこぎつけたのだ。

ぼくは「たかがパテひとつのことで」と思いながらも、とにかくお客さんに謝った。
しかし、お客さんはへそを曲げたままだった。
「今度という今度は許さん。しんたさんに協力してあげられなくて悪いけど、今回はキャンセルする」
そして店長に「教育がなってない!」と言って帰っていった。

その後、それが問題になり、会議の席でも「クレームの件をどうするか」というのが議題になったほどだった。
その席上で、店長はぼくに向かって「おまえが一番悪い」と言った。
しかし、どう考えても、今回の件はぼくが悪いとは思えない。
ぼくが憮然とした顔をしていると、店長はさらにぼくに難癖をつけてきた。
「だいたい、おまえの気配りが足りんからこういうことになるんだ。そんなことだから、部門の売り上げも悪いだろうが」
「どこの部門も夜遅くまで頑張って仕事をしとるのに、おまえはさっさと部下を帰らせやがって」
おまえが、おまえがの連発だった。
しかし、今回のクレームと売場の数字とは何も関係ないし、ぼくの部門は女子社員ばかりだったので早く帰さなければならない。

結局クレームの件は、「しんたとエアコンの売場の者で、ちゃんと解決しろ」と言うことになった。
しかし、売場の者は何一つ行動を起こさなかった。
ぼくひとりが駆けずり回り、何とかキャンセルを食い止めた。
一方的に個人を責めたて、責任を押し付けて良しとする会社の体制、チームワークのなさ、その他もろもろのことを考えていくうちに、ぼくは会社に幻滅感を抱いてしまった。



君、いなかどこ?

東京にいた頃の話。
下宿に帰ると、門の前に一人の男の人が立っていた。
ぼくは軽く会釈をして、その人の前を通り過ぎようとした。
その時だった。
「すいません」と男が言った。
「はい」とぼくが答えると、「君、いなかどこ?」と聞いてきた。
「北九州ですけど」
「へえ、北九州か。知ってるよ。大分県でしょ」
「は?福岡県ですけど」
「あ、そうそう福岡だったね」
話を聞くと、その男は新聞の勧誘マンで、その日はぼくの下宿付近を回っていたのだった。
「ねえ、新聞取って下さいよ」と男は言った。
「そんな余裕ありません」
「3ヶ月先からでいいからさあ」
「いやです」
「そんなこと言わずに」
この男、相当しつこい。
そこで、「北九州を大分と思っている人からは取れません。新聞取ってもらいたかったら、北九州にある区名を覚えてきて下さい」と、ぼくは言った。
「わかった。じゃあ、今度覚えてくるから。その時は取ってね」と言って男は去って行った。

同じく東京での話。
「しんたさん、いなかどこだっけ?」
「北九州やけど」
「ああ、福岡県の県庁所在地だろ」
「違う。県庁所在地は福岡市」
「ところでさあ、福岡市の近くに博多ってあるだろ?」
「博多は福岡市にあるんやけど」
「え、そうだったの。知らなかったなあ」

東京にいる時、ぼくはいつもこの「いなかどこ?」攻撃にあっていた。
しかも聞いてくる人は、地理を十分に把握していない人が多かった。
「そんなに人のいなかを聞きたいのなら、少しは地理ぐらい勉強して来い。話がそこから進まんやないか」
いつもぼくは、そう思っていた。

かといって、ぼくはそんなに地理に詳しいわけではない。
いまだに群馬県や栃木県の県庁所在地を聞かれたら、詰まってしまう。
「宇都宮、前橋、どっちがどっちだったか」と迷ってしまうのだ。
だから、ぼくはその人の訛りを聞いて、出身地がどこであるのか判断がつきにくい場合は、なるべくその人の出身地を聞かないことにしている。
そこが行ったことのある場所や知っている場所なら話も弾むが、知らない場所なら話はそこで途切れてしまうからだ。
例えば前出の前橋の場合は、詩人の萩原朔太郎の出身地くらいしか知識を持ってない。
もし前橋の出身の人と会ったら、「前橋は、萩原朔太郎の出身地ですよね」、で終わってしまう。
その後が出てこないのだ。
宇都宮にいたっては、「TMネットワークに宇都宮というのがいたなあ」である。
上記の2ヶ所にお住まいの方には大変申し訳ないが、今現在ぼくにはこの程度の知識しかないのです。
この次、上記の都市名を使う時までには勉強しておきますので、その時は新聞取って下さい。(笑)

逆に行ったことのある場所や、知っている場所やから来た人と対する時は、非常に饒舌になる。
例えば沖縄出身の人と対した時は、琉球村・万座毛・東南植物園・玉泉洞・喫茶マカオに始まり、続いて那覇やコザについて語り、なんと最後には民謡まで歌っている。
ここまでやると、自分の故郷が嫌いな人以外は、だいたい親近感を抱いてくれるようだ。
大阪出身の人もそうだ。
「じいちゃんが、昔住んでいてね~」で始まり、『ふりちん痰つぼ』まで話をすることもある。
「しんたさんは、けったいな人や」と思われているかもしれないが、その後の人間関係は、おおむね良好である。

まあ、相手の出身地で人間関係が決まるわけではないのだが、人間関係を築くための、ひとつのきっかけになっているのは確かだ。
そのためには勉強が必要だ。
「TMネットワークに宇都宮というのがいたなあ」では、話にならない。
冒頭の新聞勧誘マンも、「北九州か、無法松だね。『小倉生まれで 玄海育ち~♪』」とやっていれば、その場で打ち解け、朝刊ぐらいは取っていたかもしれない。



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