頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう!

2002年03月

教育

今日、5千円札を見ていて思ったことがある。
このお札には、新渡戸稲造の肖像が載っている。
しかしこの新渡戸稲造、福沢諭吉や夏目漱石と比べると、かなりなじみが薄い。
ぼくも、『武士道』を書いた人だ、程度の知識しか持っていない。

『新渡戸稲造』、実に書きづらく読みにくい名前である。
初めてこの名前に触れた人は、きっと何と読んでいいのかわからなかったはずだ。
ぼくも初めてこの名前を見た時は、何と読んでいいのかわからなかった。

ところで、子供から「この人、何をした人?」と訊かれて、明確に答えることのできる人が、全国民の何パーセントいるのだろうか?
「世界に日本の文化を紹介した人」と言っても、子供たちにはピンとこないだろう。
仮に「日本の文化を紹介したら、お札に肖像画を載せてもらえる」と理解されたら、ちょっと困ったことになる。
「ということは、次は海外で活躍している電撃ネットワークの番か」と真剣に思う子も出てきて、彼らに続けとばかりに、南部虎弾のような頭をしたり、マジックインキを飲んだり、尻に花火をつっこんだりするかもしれない。

そこでぼくは考えてみた。
子供に新渡戸稲造のことを教えようと思っても、無駄なことである。
まず、名前が読みにくいというのが致命的である。
次に、「天は人の上に・・・」や「知に働けば角が立つ・・・」といった名文句を残していない。
さらに他の二人に比べると、試験に出る率が低い。
こういう人のことは、学者先生や歴史家に任せておけばよいのだ。

では、5千円はどうやって説明しようか。
さらにぼくは追及してみた。

子供「5千円札に載っている人は誰ですか?」
しんた「新渡戸稲造です」
子供「知らないなあ」
しんた「でもね、あの画は違う人なんだよ」
子供「え、誰ですか?」
しんた「君もよく知っている人です」
子供「え?」
しんた「5千円に載っている人、それは、」
子供「それは?」
しんた「マギー司郎です」
子供「え、マギー司郎なんですか?」
しんた「そうです。よく見てごらん」
子供「あ、ホントだ!!どうしてマギー司朗が載ってるんですか」
しんた「肖像画をすり替えるマジックやったの」

「子供にそんな嘘を教えてはいかん」
と、お叱りを受けるかもしれない。
しかし、5千円札の人が新渡戸稲造と知ってなんの役に立つんだろう?
先にも言ったが、試験に出るわけでもないし。
せいぜい「笑っていいとも」の、クイズの問題にされるくらいのものである。
それよりも、マギー司郎が載っていると思ったほうが、楽しくていいじゃないか。
マジックで画をすり替えたと思ったほうが、想像力が育つじゃないか。
楽しいということは、人生が豊かになるということだ。
想像力は、人間の生きる糧だ。
教育とは、人生の豊かさを教え、想像力を育てることである。



春休み

そうか、全然気にもとめてなかったけど、学生は今春休みなんだ。
それで、店内をガキどもが走り回っているわけか。
今の子供たちは、外で遊ぶようなことをしないのかなあ。

ぼくが小学生の頃は、春休みといえば『ダンチン(ビー玉)』だった。
人が集まれば、『ダンチン』をやっていた。
主に家の前の広場でやっていたのだが、時には隣の町内へ遠征に行ったりもしていた。
ポケットにダンチンを詰め込んで、ジャラジャラやって歩いていたものである。
ポケットがより膨らんでいる奴が、強い奴ということになる。
「穴入れ」「三角打」「インキョ」といったゲームをやっていた。
要は賭け事である。
数を賭けて、そういったゲームをやるのである。
最終的に相手のダンチンに当てたら勝ち、という単純なものだった。
だいたい卑怯な奴が勝つゲームだった。

ぼくの住む地域では、野球もこの時期から始まった。
やはり、高校野球やプロ野球開幕の影響があったのだろう。
誰かがバットとボールを持ってくると、自然に人が集まってくる。
そこで適当にチーム分けし、試合が始まる。
広場が狭かったため、いつも三角ベースでやっていた。
広場が内野で、道路が外野、ホームランは人の家であった。
ただ、ホームランになるのは、ボールが飛び込んでも叱られない向かって左側、つまりレフト側の家だった。
反対側、つまりライト側の家は、ドラえもんに出てくる『神成さん』のような親父が住んでいた。
ボールがそこに飛び込むと、いつもその親父が怒鳴りながら出てきて「ここで遊ぶな!」と言っていた。
したがって、この家にボールが飛び込むとチェンジになる。
さらに、ボールは打った人が取りに行かなければならない。
このルールは、左打ちのぼくには厳しいものだった。
満塁でぼくに打席が回ってくると、相手はわざと打ちやすい球を投げてきたものだ。
注文どおり、ぼくはライナーで『神成さん』宅にぶち込んでしまう。
これでチェンジだ。
もちろん、叱られるのはいつもぼくだった。
しかし、何が幸いするかわからないものである。
そのおかげで、ぼくは流し打ちを覚え、クラス対抗や子供会の野球大会、さらには社会に出てからの早朝野球では重宝がられたものだった。

春休みの楽しみがもう一つあった。
そう、ちょうど今頃の新聞に載る、公務員の人事異動である。
別に、お役所関係の異動はどうでもよかった。
ぼくが関心を持っていたのは、教職員の異動である。
毎年新聞を広げては、目を凝らして人事異動の欄を見ていた。
転任してくる先生は、自分の小学校の欄を見ればすぐにわかるのだが、転任して行く先生を探すのは大変だった。
当時八幡区には30以上の小学校があった。
それを一校一校、隈なく探していくのである。
時には他の区や郡部に転任して行く先生もいるのだから、その欄もおろそかにできない。
根気のいる作業だったが、やりだすとこれが楽しい。
その中に、過去に担任だった先生の名前や、一度でも叱られたことのある先生の名前が入っていると、「ザマーミロ、おれを叱るけたい」と思ったものである。
しかし考えてみると、逆に「やったー、もう『バカしんた』の顔を見なくてすむ」と思い、喜んで転任していった先生もいたのかも知れない。
どっちもどっちである。
直接ぼくと接触のない先生でも、一般に恐いと言われている先生には転任してもらいたいというのがあった。
もし、そういう先生が担任にでもなったら一大事だからだ。
2年間は同じ先生だから、いつもソワソワしていたぼくにとって、これは地獄である。
とにかく、そういう可能性もないとは言えないので、一応心の準備をしておくためにも、そういう先生が転任するかどうかを確かめておかなければならない。
その意味でも、教職員の人事異動の記事は役に立った。

春休みには宿題がなかったということもあり、一年で一番のんびりしていた時期である。
しかし、すぐ終わるのがたまにきずだった。



今日は終日雨であった。
雨がやんだら、本屋にでも行こうと思っていたのだが、いっこうにやむ気配がなかった。
ということで、今日は一日家の中にいた。

「春に三日の晴れ間なし」という言葉があるそうである。
そういえば、ここ何週間か休みの日には必ず雨が降る。
それも、晴れ間のひとかけらもないのである。
休みの前後の日は必ず晴れているのだ。
これはどうしたことだろう?
ぼくは決して『雨男』ではない。
要所要所では必ず晴れているから、どちらかと言うと『晴れ男』に近いと思っている。
まあ、これも巡り合わせの問題なのだろうと思い、諦めている。

しかし、休みの日に晴れ間を拝めないと、何か損をした気がするものだ。
先日、あるアンケートで「一日のうちで、どの時間帯が好きですか?」という質問があった。
ぼくは躊躇せず「夕方」と答えたのだが、これも「晴れていれば」という条件付きでのことだ。
曇天や雨天の夕方は大嫌いである。
ぼくの部屋の窓から見える工場街の灯りが、何かしら寂しく感じるものだ。
ぼくの嫌いな冬の情景を、そこに重ねてしまうからだろう。

雨が降ると、何をする気も起こらない。
ここまで雨に見舞われると、家の中で運動することも嫌になる。
次の休みがどうなるかはわからないが、もし雨だと、また家にくすぶってしまい、また『妖怪ハラマワリ』を巨大化させることになってしまう。
この悪循環を断ち切るためにも、来期は休みのローテーションを変えてみようかなあ。

ぼくが勝手に「雨が似合う街」と思っている場所がある。
東京の銀座、京都市内、島根の津和野、福岡でいえば太宰府と秋月、大分の日田、那覇の国際通りなどである。
那覇の国際通り以外は、傘を差して歩くのが絵になるのである。
最初にそれを感じたのは銀座だった。
雨に濡れる三越のライオンを見て、ふとそう思ったのである。
その時から、銀座は風情があっていいな、と思うようになった。
古都や小京都と呼ばれるところは、だいたいおわかりいただけると思う。
では、那覇はどうしてか?
答は、スコールが好きだからである。
那覇には何度か行ったことがあるが、そのたびにスコールに見舞われていた。
突然の土砂降りというのは、気持ちがいいものである。
腹の底から「今生きている」というものが、湧き出てくるような気がするのである。
そういうことは、北九州にいても夕立などで味わえるのだが、那覇に比べると、その頻度は低い。
やはり、那覇が本場という気がするのである。
しかし、いくら雨が似合う場所といっても、雨が降るとどこに行く気も起きないのだから、なかなかそういう場所に行く機会がない、というのが現状である。

昨日の原体験ではないが、ぼくが小さな頃、雨が降るとよく前の川が氾濫していた。
橋を隔てた向こう側は、かつて「死の海」と謳われた洞海湾である。
したがって家の前の川も、昔は腐ったような臭いがしていたものだった。
そういう川が氾濫するということは、毒をばら撒かれているのに等しいことだ。
「汚いけ外に出るな」と言われていたが、子供たちがそういうことを聞くはずがなく、皆外に出て冠水した道路におもちゃの船などを浮かべて遊んでいた。
しかしよく考えると、その船は、またお風呂に浮かべるのである。
こんなに汚い話はない。
きれいに洗えば問題ないのだろうが、洗ったような記憶がない。
そういえば、よく溝の中で浮かべていた潜水艦のプラモデルも、洗わずに風呂に浮かべていたような記憶がある。
ああ、ぼくはなんと罪深いことをしてきたのだろう。
もしかしたらこの白髪は、その時の後遺症なのかもしれない。

もうそろそろ寝ようと思うが、外は・・・、
えっ、晴れとるやん。
月がこうこうと夜の街を照らしている。
くそー、休みを返せー!!



原体験

ぼくは昭和32年11月に福岡県八幡市(現北九州市八幡西区)折尾で生を受けた。
折尾という街は、かつては石炭産業で栄えた所である。
鹿児島本線と筑豊本線が交差する交通の要所で、2年前までは西鉄北九州線の起点でもあった。
また多くの高校や大学がここに集まっており、石炭産業の廃れた今は、学生の街として栄えている。
ぼくは、その折尾にある田中産婦人科というところで生まれた。
今でもこの病院はあるが、この田中産婦人科という名を聞くと、何かホッとするような思いがする。
ちなみに、この産婦人科は、あの雅子妃の不妊治療をしたと噂される、有名な『セントマザー病院』の院長の実家である。

生まれた頃に住んでいたのは、遠賀町という父の母方の実家の近くであった。
しかし、その頃の思い出はまったくない。
そこには、あまり長くは住まなかったのである。

ぼくが生まれた翌年に、『しろげ一家』は黒崎に移り住んだ。
街のど真ん中に家を借りた。
その家は、今の飲み屋街辺りだったということである。
引っ越した理由は知らない。
ただ、父が八幡製鉄所に勤めていたので、「職場に近いので、通勤に便利」というのが理由だったのかもしれない。
なぜなら、黒崎からだと八幡製鉄所までは、当時走っていたチンチン電車で10分とかからないのだから。
もう一つ考えられるのが、その家が映画館の隣にあったということである。
テレビのなかった当時は、映画が情報源であった。
父は案外、映画っ子だったのかもしれない。
黒崎に住んでいたのは1年ちょとだった。
したがって、2歳のぼくにはその頃の思い出もない。
ただ、今でもそのへんを歩くと、なぜか懐かしい思いがするものである。

2歳の頃、今住んでいる場所に移った。
ここは、黒崎と折尾のちょうど中間に位置する。
もちろん、移り住んでからしばらくの記憶はない。
覚えているのは、家の近くに馬が多くいたことだ。
かと言って、近くに田んぼや畑があったわけではない。
じゃあ、なぜ馬がいたかというと、以前ここに競馬場があったからである。
もちろん、小倉のような中央競馬ではなく、地方競馬だったようだが。
ぼくが保育園に通う頃には、すでにこの競馬場は潰れていたので、馬がいたというのはそれ以前の記憶だろう。
しかし、初めてにおう馬の臭いは強烈だった。
ぼくが競馬をしないのは、きっとこの臭いからきているのだろう。

この競馬場のように、越してきた頃はあったのだが、ぼくが幼い頃に潰れてしまったものに、映画館がある。
うちから歩いて1,2分の場所に映画館があった。
黒崎にあった、東映・東宝・日活・松竹といったメジャーな映画館ではなく、その当時ならどこにでもある、テレビ代わりの小さな映画館だった。
そこでは、古い時代劇やB級の洋画を上映していたような覚えがある。
立地が悪く、雨が降るといつも水浸しになった。
いすは破れ、時折ネズミが走り回るような、最悪の映画館だった。
この記憶が、後のぼくの映画館嫌いを決定付けたのだと思う。
ぼくは、好んで映画に行く人間ではない。
今までは、招待券をもらった時ぐらいしか行ったことがない。
それもこれも、映画館が嫌いだからだ。
ビデオが普及してからは、招待券をもらっても行かないようになった。

区画整理とともに消えていったものもある。
銭湯である。
ぼくの家には風呂があったので、めったに銭湯を利用することはなかった。銭湯に行ったのは、風呂が壊れた時と、親戚のうちに泊まりに行った時くらいなものである。
そのせいか、銭湯にはいつも憧れを持っていた。
東京にいた時に一番うれしかったのは、銭湯通いが出来たことである。
時間に制約がなければ、ずっと入っていたかった。
銭湯で特に好きなのが、風呂場から脱衣場に出たときのにおいである。
あれは何のにおいなんだろうか?
足拭きの、あのタワシのようなもののにおいなんだろうか?
なんと形容していいのかわからない、独特なにおいである。
ぼくは温泉やスーパー銭湯に行くのが好きだが、あのにおいがないことにいつも不満を感じている。
温泉はともかく、スーパー銭湯に言いたいことがある。
いくら温泉もどきとはいえ、温泉のあの屁みたいなにおいまで真似なくてもいいじゃないか。
それよりも、銭湯独自の、あのタワシのようなにおいを出してもらいたいものである。

それにしても、「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものである。
ここまで羅列したどうでもいいようなことが、すべて幼児期の体験や記憶から来ているのである。
こういうことを探っていくと、「どうして日記を書くのが遅いのか?」という疑問も解けるかもしれない。
現在、時刻は午前9時14分である。



棚卸

今日は棚卸だった。
年に2度行われるのだが、その時期になるといつも苦痛を感じる。
販売業界に入って20年以上経つが、棚卸という作業はいまだに慣れない、嫌なものである。
「こんな嫌な棚卸なんかなくなればいいのに」と、いつも思うのだが、そうもいかない。
そこで「せめて、嫌な棚卸の中にも楽しみを見つけよう」と、いつも思うことにしている。

棚卸で真っ先に思い出すのは、長崎屋にいた時のことである。
その日は店を閉じての棚卸であった。
前日、ぼくたちはいつものように飲みに行っていた。
3軒ほどハシゴして、気がついたらもう午前5時を過ぎていた。
その時のメンバーの一人に、例の「海綿体パパ」=Kさんがいた。
ぼくが時計を見て気がつき、「あ、Kさんもう5時過ぎですよ。9時半からやけど大丈夫ですか?」と言うと、Kさんは例のごとく泥酔していて、「あ、しんちゃん、ぼくはねえ、フニャフニャフニャ・・・」とわけのわからんことを言っていた。
とにかく帰って寝ようということになり、そこでお開きになった。
タクシーで家に戻り、3時間ほど寝てから会社に出かけた。

朝礼が始まったが、まだKさんは来てない。
フロアー長が「Kさんどうしたの?」と聞いたので、ぼくは「昨日飲みに行ったんですけど、もしかしたら寝坊してるのかもしれません」と言った。
みんなはクスクスと笑った。
すると、突然フロアー長が「こんな大事な日に、飲みに行ったなどと言うな!不謹慎な」と怒り出した。
その怒りの最中にKさんはやって来た。
まだ眠っている。
フラフラしながら朝礼の列に加わり、ぼくの横に立った。
ぼくが小声で「Kさん大丈夫ですか」と聞くと、Kさんは口元だけに笑みを浮かべ、「お、しんちゃん。大丈夫、大丈夫」と言った。
しかし、大丈夫じゃない。
目を閉じている。
そして体が揺れている。
フロアー長は、苦虫を噛みつぶしたような顔でこちらを見ている。

フロアー長が棚卸の説明を始めた。
相変わらずKさんは目を閉じたままである。
時折倒れそうになる。
それを見てフロアー長が、「Kさん、起きてますか?」と言った。
Kさんが目を閉じたまま何も言わないので、ぼくがひじでつつくとKさんは目を開けた。
そして周りを見回し、「ん?・・・ああ、大丈夫です」と答えた。
それから、また目を閉じる。
フロアー長が「今までの説明、わかりましたか?」と訊くと、また目を開け「ん?・・・ああ、大丈夫です」と言う。
他の人はこのやり取りを見て笑っていたが、ぼくは笑おうに笑えなかった。

その後、棚卸が始まった。
Kさんは、まだフラフラしていた。
Kさんのパートナーは、「Kさん、ぼく一人でやりますから、寝とって下さい」と言っていた。
Kさんは例の調子で、また「ん?・・・。ああ、大丈夫」とやっている。
結局、そのままKさんは棚卸を続けた。

その期の棚卸は、かなりの違算を出してしまった。
結局、後日再棚卸ということになった。
しかしそれは他に原因があったからで、決してKさんのせいではなかった。

さて、今日のことである。
ぼくはいつものように、棚卸の中に楽しみを探していた。
売場をチェックしていると、ふと体重計を見つけた。
「そういえば、ここのところ体重を量ってなかったな」と思い、ちょっとこれに乗ってみることにした。
「何か日記のネタになるんじゃないか?」と期待して目盛りを見ると、たしかに日記ネタにできることになっていた。
昨年74キロだった体重が80キロを超えていた。
服を着ていたとはいえ、80キロを超えるのは生まれて初めてのことである。
「やったー、これはネタになる!」と思った。
が、喜ぶことではない。
元の体重に戻すには、大変な努力が必要である。
今日ぼくは、棚卸の中にひとつの苦しみを見つけた。



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