頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう!

2002年01月

ギター その3

ぼくはそれまで、「ジャンジャカ、ジャカ、ジャカ」とピックを使ってストロークばかりやっていた。
しかし、ギターの醍醐味はやはり指で奏でることだろう。
そう思って、ギターを始めた当初から無視してきた教則本にお世話になることにした。
楽器屋に行って、フィンガー・ピッキング奏法中心の教則本を買い、早速挑戦した。
まず、アルペジオから始めた。
案の定、うまくいかない。
音符通りに指が動かない。
一音一音のバランスが取れない。
指に力が入らない。
毎日毎日指を動かす練習をした。
指に重りをつけてもみた。
授業中、入浴中、トイレの中でも指を動かし続けた。
それでもうまくいかない。
「もういい。おれはピック一本でいく」と何度思っただろう。
10日ほどして、何とか指が動くようになった。
教則本に載っていたアルペジオの課題曲は3曲だった。
一応、教則本のアルペジオは出来るようになった。
試しに拓郎の「雨」などをコピーしてみた。
ぎこちないものの、何とかうまくいった。

次に厄介なものが待っていた。
スリーフィンガー奏法である。
リズムの取り方が全然わからない。
しかも課題曲は知らない曲ばかりだ。
当時の教則本というのは、テープやソノシートなどが付いた本などは、ほとんどなかった。
「こればかりは独学ではどうにもならんのか。といって、人から教わるのは好かんし。どうしよう?」
しかし、その頃のぼくには情熱があった。
読めない楽譜を自分なりに読んで、何とかスリーフィンガーのリズムをつかんだ。
「ベースランニング」や「ハンマーリング・オン」「チョーキング」といった高等テクニックは出来なかったが、何とかスリーフィンガーの形にはなった。

さて、スリーフィンガーが出来るようになった頃、一つの事件がおきた。
それは、体育の授業中のことである。
バスケットの試合をやっていた時、相手のボールを捕ろうとして、右手の小指をボールに引っ掛けてしまったのだ。
かなり痛かった。
が、ただの突き指だろうと湿布をしておいた。
もちろん、ギターの練習もした。
翌日、朝起きてから異変に気が付いた。
その指が脹れあがり赤黒くなっているのだ。
小指を曲げると、何か「ギーギー」といっているような感じがする。
「折れたか!」
その時ぼくはすぐに決断した。
「病院には行かん」
元来の病院嫌いである。
骨が折れたのは、生まれて初めてのことだったが、病院に行くとギプスをされる。
そうなるとギターが弾けなくなる。
ということが、すばやく頭の中を駆け巡ったのである。
自分の体のことよりギターを選んだぼくは、その後何十年も右手の小指の痛みと闘わなければならなくなる。

一方、ギターのほうは順調に上達していった。
スリーフィンガーもある程度はマスターした。
しかし、何かが足りない。
テレビで弾き語りをしているのを見ると、左の指がひんぱんに動いているのだ。
それに比べ、ぼくはコード固定で弾いていたため、演奏が一本調子になり面白くない。
ほかの教則本などを見ても、左指の動きなどは書いていない。
「これは何で勉強したらいいんだろう」と思っていた。
いろいろ本などで調べていると、ある広告が目に付いた。
「エレックレコード/はがとまるニューフォークギター教室」という通信講座の広告だった。
「エレックレコードなら間違いないやろう」と資料を取り寄せた。
半年間の講座で、値段もそう高いものではなかった。
さっそくぼくは入会した。



ギター その2

高校一年の5月、ラジオでよしだたくろうの新しいアルバムの特集をやっていた。
「伽草子」である。
何曲か流していたが、その中の一曲にすごい衝撃を受けた。
何か頭をガツンと殴られたような感じがした。
その一曲とは、「制服」という曲だ。
このアルバム中唯一の、ギター一本弾き語りである。
ぼくはそれまでにも拓郎の歌を聞くことはあったが、その他の流行歌のようにただ聞き流すだけだった。
「今日までそして明日から」を聴いても、「ああ、これがフォークソングというんだな」と思う程度だった。
しかしこの歌は違った。
歌詞は単純なのだが、熱く迫ってくるような「語り」であった。
ぼくは、こんな歌を聞いたのは初めてだった。
さらにすごかったのがギターであった。
簡単なフラットピッキング奏法なのだが、ベース音を効果的に使い、説得力がある。
もちろん、こんな演奏を聴くのも初めてであった。
火がついた。
こんなの聴かされたら、一刻も早くギターが欲しくなるものである。
ぼくの「ギター欲しい」は、「ギターを弾きたい」という漠然とした理由から、「オリジナルを作って弾き語りをしたい」という具体的な目標へと変わった。

ぼくがギターを手に入れたのは、それから半年後、11月のことであった。
たしか堀田というメーカーのギターだったと思う。
親戚からもらったものだった。
手に入れた翌日、ぼくは楽器屋に行って、ピック・ピッチパイプ・カポタスト、それと拓郎の楽譜本を買った。
最初から教則本無視である。
楽譜本にはダイアグラムとストロークの仕方が付いていたので、そのとおりに弦を押さえて弾けばいいと思ったのである。
まず、簡単そうな曲を選び、一つ一つコードを覚えていった。
すばやくコード進行が出来るように、繰り返し繰り返し練習した。
最初は一曲あたり、1週間を要した。
だんだん、その間隔も狭くなっていったが、ここでひとつの難関にぶち当たった。
コード「F」である。
いわゆるバレーコードである。
人差し指で、6弦全部を押さえなければならない。
これが出来んのです。
その当時は、ギターがそううまくない奴でも、Fを弾けると聴いただけで「こいつ天才やのう」と感動していた。
そのくらいFは初心者には難しい。
「Fが押さえられなかったから、ギターを断念した」という話を、嫌になるほど聞かされたものである。
とにかく、ギターに対する情熱だけはあったから、「ここで負けるわけはいかん」と、ぼくにしては珍しく根性を見せた。

1ヶ月かかったが、何とか音は出るようになった。
さて、次はリズムである。
むちゃくちゃだった。
何とか弾けるようになった曲を、レコードに合わせて弾くと、だんだん音がずれてくる。
一曲終わった頃に、まだ何小節か残っている状態である。
音にの抑揚がなく、ただ弾いているだけであった。
しかし、ここでもぼくは根性を見せた。
ちゃんとリズムが合うまで、何日間もかかって練習したのである。
当時ギターの練習時間は、毎日4時間を超えていた。
指が切れるまでは行かなかったが、左指の先は弦の錆などで変色してしまっていた。
とにかく、後にも先にも、逃げないで一つのことをやったのは、このギターの練習だけである。
一曲出来たら次の曲、というふうに飽きずに地味な作業をやったものである。
主だった曲を一通り出来るようになったのは、ギターを始めてから3ヶ月くらい経ってからだった。
その後に、もう一つの難関が待っていた。



ギター その1

先日裁判所から、「破産者(K楽器)に対する破産事件について、破産管財人から配当するための財源がないため破産手続きを終了する旨の申し立てがありました。・・・」という通知が来た。
つまりぼくが販売を委託していたギターの代金が、入ってこないということになったわけだ。
「12万円で売れました!」とぬか喜びさせやがって。(7月2日の日記参照)
まあ、今回のことは倒産した時点からわかっていたことであるから、そんなにショックは大きくなかったのだが、ただ非常に頭にきたのは確かだった。

さて、もう戻ってこないギターであるが、これは過去から換算して9台目のギターだった。
メーカーはマーチンで、同一メーカーとしては2台目のものだった。
ちなみに、「歌のおにいさん」に収録している歌の演奏は、ほとんどこのギターで弾いている。

ぼくがギターを弾き始めたのは、高校1年の時である。
中学の頃からギターが欲しくて、あの「TVジョッキー」に出ようかと考えたこともある。
きっかけは中学2年の時、文化祭で3年生が岡林信康の歌を弾き語りで歌ったのを聴いたことだった。
それまではギターは難しいものだと思っていたのだが、コードを押さえてストロークするだけの簡単な弾き方もあると知って、俄然ギターに対する情熱が芽生えた。
まあ、最初は漠然と「ギター欲しいのう」と思うだけだったのだが、中学3年の時に友人が学校にギターを持ってきたのを触らせてもらってから、「ギター欲しい」は本物になった。
その友人は何度か学校にギターを持ってきて、ぼくにコードや弾き方を教えてくれた。
しかし、たまにしか持ってこないギターで、コードや弾き方を習ったってすぐに忘れてしまう。
友人が「この間教えたやないか。お前はCのコードひとつ覚えきらんとか!」と言うので、ムッとしたぼくは「じゃあ、覚えてやるけ毎日ギターをもってこい」と言った。
友人は相変わらず、たまにしか持ってこなかった。
ということなので、ぼくも中学を卒業するまでCのコードを覚えきらなかった。

ぼくの通った中学は、それほどギターが盛んではなかった。
そのためレベルも低かった。
他のクラスに、学校中の誰もが認める「フォークギター上手」がいた。
一度弾いているところを聴いたことがあるが、ちゃんとギターを弾いて歌を歌っているのだ。
誰もが「うまい」「さすがやねえ」などと言っている。
ぼくもそれを見て「凄い!」と思っていた。
しかし、それは「凄い!」ことでもなんでもなかった。
彼は、簡単なストローク奏法をしていただけにすぎず、技術的には大したものではなかった。
つまり、彼は「フォークギター上手」ではなかったのだ。
みんな自分がギターを弾けないから、彼を「フォークギター上手」と思っただけにすぎない。
そのことをぼくは、高校に入ってから知ることになる。

高校に入ってから一番衝撃を受けたのは、ギターを弾く人間があまりにも多かったことである。
しかもレベルがかなり高い。
難易度の高かった拓郎の「花嫁になる君に」や「旅の宿」を、いとも簡単に弾く人が何人もいる。
ぼくは、ああいう難しい曲は、レコードの世界の人しか弾けないものだとばかり思っていた。
しかし、それはぼくの認識不足だった。
「お前、それ誰に教えてもらったんか?」と聞くと、「誰にも教えてもらってない。レコードからコピーしただけ」と言う。
「コピ-? コピーちゃなんか?」
「レコードから音を拾うこと」
「え?レコード聴いて覚えたんか?」
「そう」
世界が違う。
「もし『フォークギター上手』がここにいたら、赤恥もんやのう」
と、ぼくはその時思っていた。



学芸会

毎年この時期になると、学芸会のことを思い出す。
現在こちらの学校では学芸会を2学期にやっているが、ぼくたちの時代は、運動会は2学期、学芸会は3学期と相場が決まっていた。
講堂に漂うナフタリンの匂いが、今でも懐かしい。

ぼくは小学校の学芸会で、六回のうち四回、器楽合奏に参加した。
担当はハーモニカである。
ぼくはおじの影響で、物心ついた時にはすでにハーモニカを吹いていた。
当時流行っていたカントリー&ウェスタンを、よく吹いていたそうだ。
そのおかげで、保育園や小学校の時、ハーモニカだけは誰にも負けなかった、と思う。
小学生の頃の音楽の成績はいつも4であった。
歌は真面目に歌わなかったし、他の教材であるたて笛がそれほど得意ではなかったので、おそらくハーモニカの腕が評価されての成績だったのだろう。

さて、学芸会においてハーモニカというのは、ピアノや大太鼓・小太鼓などに比べると目立たない存在である。
しかしぼくは、たて笛よりはいいと思っていた。
その時の写真が残っているが、たて笛を吹いている奴は、表情が実に暗い。
顔を下に向け、唇をとがらせて笛をくわえ、上目づかいで指揮者を見ているのだ。
それに比べると、ハーモニカを吹いているぼくたちは、ひじを張って明るい表情をしている。
たて笛が得意じゃなくて本当によかった、と今でも思っている。

ところで、残りの二回の学芸会では何をやったのかというと、合唱と劇である。
合唱は二年の時、劇は四年の時だった。
合唱をやったのには理由がある。
実は、最初ぼくは「踊り」に回されていたのだ。
初めての練習の時、先生がどんな踊りをやるかの説明をした。
それは、創作ダンスのようなものだった。
説明が終わり、先生が「じゃあ、基本の練習をしましょう」と言った。
基本の練習とは、なんと「スキップ」なのである。
その日の練習時間は一時間であった。
ぼくたちは一時間、バカみたいに笑顔でスキップをやらされていた。
「こんな女々しいこと誰がするか!」と思い、ぼくは練習が終わってから先生にかけあった。
ぼくが「踊りは嫌ですから、代えて下さい」と言うと、先生は「踊りのどこが嫌なんね。楽しいやろう」と言った。
ぼくがしつこく「代えてくれ」と言ったので、先生もあきらめたのか「じゃあ、何がしたいんね?」と聴いてきた。
「ハーモニカがしたいです」
「器楽はいっぱいやけ、だめ」
「じゃあ、歌でいいです」
ということで、合唱に変えてもらった。
このことがあったからだと思うが、なぜかぼくは踊りが嫌いになった。
後年、ディスコに行っても、飲むだけで踊らなかったのは、この一時間のスキップが影響している、と思っている。

もう一方の劇のほうは、自分から志願したのである。
三年の時、ぼくは同学年の劇を見て「劇のほうが目立つやん」と思っていた。
四年の学芸会の種目分けの時、先生が「劇に出たい人」と言ったので、ぼくはすかさず手を上げた。
難なく劇に決まった。
その年の四年生の劇は「彦市とんち話」であった。
練習初日に、オーディションのようなものがあった。
これで役を決めるのだ。
が、役は最初から決まっていたのだと思う。
いい役に選ばれたメンバーを見てみると、PTAの役員の子供か成績の良い生徒ばかりだったのだ。
子供心に嫌な気がしたものだ。
ぼくに与えられた役は、「その他のたぬき」だった。
セリフも、たぬき全員で「彦市どーん」と言うだけだった。
これを言うだけのために、何日も練習したわけである。

さすがに5年生からは本業(?)に戻った。
ハーモニカ担当は10人ほどいたのだが、ソロパートを吹く3人の中に選ばれた。
やはり自分に自信があったからだと思うが、緊張もしなかった。
たぬきの時は「彦市どーん」一つに、なぜか緊張したものだった。
もしかしたら、今でも人前で「彦市どーん」とは言えないかもしれない。
今度試しに、店に来たお客さんの前で言ってみようか。
しかし、その時は違った意味で緊張するだろうなあ。



さよなら三角

昨日だったか、NSPが再結成するというのをラジオで聴いた。
ぼくは別に彼らを好きではなかったので、どんな歌を歌っていたのかは知らないが、ギターで「夕暮れ時はさびしそう」や「さよなら」の練習をしたおかげで、この二つの歌は知っている。
ラジオからは「夕暮れ時はさびしそう」が流れていた。
そういえば、「さよなら」はどんな歌だったろう。
いろいろ思い出してみたが、どうも出てこない。
「さよなら、さよなら」と口の中で繰り返しているうちに、オフコースの歌が出てきたり、拓郎の歌が出てきたりした。
「どんな歌だったろう?」となおも考えていると、ふと頭の中が真っ白になった。
そして次に口の中から出てきた歌は、なんと「さよなら三角」だった。

「さよなら三角、また来て四角、四角は豆腐、豆腐は白い、白いはうさぎ、うさぎは跳ねる、跳ねるは蛙、蛙は青い、青い葉きゅうり、きゅうりは長い、長い葉エントツ、エントツは暗い、暗いは幽霊、幽霊は消える、消えるは電気、電気は光る、光るは親父のハゲ頭」
小学生の頃、こんな歌をよく歌ったものだった。
そういえば、こんなのもあった。
「そうだ、そうだ、ソーダー会社のソウダさんが死んだそうだ。葬式饅頭、おいしそうだ」
いったい何なんだろう、この歌は?
ただごろがいいだけで、何の意味もない。
しかし、小学生の頃は必死に覚え歌っていた。
ああ、こういうのもある。
「一つ二つはいいけれど、三つ三日月ハゲがある。四つ横ちょにハゲがある。五ついくつもハゲがある。六つ向こうにハゲがある。七つ斜めにハゲがある。
八つやっぱりハゲがある。九つここにもハゲがある。十でとうとうハゲちゃった」
数え歌の一種か。
似た歌で、
「いーち芋屋の兄ちゃんと、にー肉屋の姉ちゃんが、さーんさるまた脱ぎ合って、しーしっかり抱き・・・・」
あっ、これは放送禁止歌だった。

歌詞のほうはいろんな地方や地区によって違うだろうが、曲はだいたいいっしょだと思う。
いったいこういうのは誰が作るんだろう?
また誰が教えるんだろう?
別にテレビやラジオでやっていたわけでもなかった。
気がついたら小学校で流行っていたのだ。
まさか「カバゴン」こと阿部進先生が教えたわけではないだろう。

しかし、これを歌と呼んでいいものかどうか。
まあ、確かに童謡や唱歌ではない。
ということは「カゴメカゴメ」のような、わらべ歌に属するものだろうか?
わらべ歌には、「あんたがたどこさ」とか、「とうりゃんせ」とか、「花いちもんめ」などの遊び歌も含まれるのだから。
他に「大波小波、高山越えて、低山越えて、谷川渡って、ワンツースリー」とか、「郵便屋さん、郵便屋さん、はがきが一枚落ちました。拾ってあげましょ、いーち、にー、さーん、しー、お変わりさん」などという、縄跳びでうたっていた歌もそう呼んでいいと思う。

ちなみに、「郵便屋さん」とは時代を先取りした言葉だと思う。
郵便屋と言うくらいだから、公務員ではない。
民営化を読んでいたのだろうか?
「カゴメカゴメ」もよく予言の歌と言われているし、わらべ歌には何かそういう不思議な力があるのかもしれない。
と言うことは、「いーち芋屋の兄ちゃんと・・・」にも、何か暗示が隠されているのかもしれない。
ああ、この歌全部書きたい!



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