頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう!

2001年09月

みんなの関心事は、ぼくを脱がせること

今日は長嶋のお言葉があるというので、野球放送を延長してお送りしていた。
誰もが名ゼリフを期待していたのだろうが、結婚式の新郎の父親みたいな挨拶をしていた。
マスコミ的には、あれでよかったのだろうか?

さて、昨日途中で終わった“みんなの関心事は、ぼくを脱がせることだったのだから”の続きです。
食事が終わり風呂から上がって部屋に戻ると、みんなの様子がおかしい。
「?」と思っていると、誰かが「しんたぁ・・・」と言った。
それが合図だった。そのとたん部屋にいた全員がぼくに飛び掛ってきた。
あっという間に押さえ込まれて、ぼくは身動きができなくなった。
いかに柔道部のキャプテンのぼくでも、この押さえ込みは解けなかった。
誰かの手が、ぼくのパンツにかかった。
ぼくは必死で抵抗した。
何とか脱がされずにすんだが、その瞬間を写真に撮っていたバカがいた。
あとで現像してみると、パンツの横からヘアがはみ出しているではないか。
その後、どういうルートか知らないが、この写真が他の高校に流れてしまい、ぼくはわりと有名人になってしまった。
知らない人が遊びに来ることさえあった。

それはさておき、難を逃れたぼくは、部屋を飛び出し、隣のクラスの部屋に飛び込んだ。
これこれこういうことがあった、と言っていると、そのクラスの奴らも、「しんたぁ」という声を合図にぼくを押さえ込みにかかった。
ここも危機一髪で難を逃れたが、どうもみんなで打ち合わせをしていたようだった。

ぼくは小中学校の修学旅行では、先生から正座をさせられていた。
一度書いたことがあるが、中学校の修学旅行の時は廊下に正座をさせられて、酔っ払いのおっさんに絡まれた。
そのあと部屋に戻ると、ああそうか、この時も脱がされそうになったんだ。
よくよく脱がされそうになる運を持っているようだ。
そのために運命はぼくに柔道を選ばせたのだろうか?
と言うことは「どうして柔道を始めたのか」という問には、「柔道一直線の影響です」とは答えずに、「よく脱がされそうになるので、それを防ぐために始めました」と答えなければならないのか。



長嶋退任

ふーん、長嶋退任か。
ま、巨人ファンじゃないぼくとしてはどうでもいいことなんだけど。
あの人は監督やるより、テレビに出てボケまくっていたほうがいいと思う。

それにしても、ぼくが小学生の頃、小学校の図書室に「日本の偉人 長嶋茂雄」という本があったが、あの人は偉人なんだろうか?
一流の野球人だとは思うが、偉人といわれると、どうも。
同じ日本の偉人シリーズに「豊田佐吉」や「野口英世」などがあったが、そういう人と一緒にしていいんだろうか?

小学校3年の時だったか、月刊誌「少年」に長嶋茂雄のブロマイド式ソノシートが付いていた。
BGMを流しながら、長嶋が語るというものだった。
天覧試合の話や、ホームランを打って1塁ベースを踏み忘れてアウトになった話をしていた。が、球場に一茂を忘れて帰ったとか、同じ足に靴下を重ねて履き、片方を探し回った、などという話はなかった。

“巨人の星”で、王が阪神戦で頭にデッドボールを受け乱闘になるシーンがあった。
その時、その乱闘の中に長嶋の姿がないのを見て、星飛雄馬は「長嶋さんはなんと冷たい人なんだ」と思った。乱闘が収まり、次のバッターの長嶋はホームランを打った。星は「長嶋さんは燃えていたんだ」と言って感動していた。
それは少し違うと思う。
長嶋の頭の中には、王のデッドボールのことなんかなかったと思う。
打席に立った時、1塁ランナーが王じゃなかったので、「あれ?ワンちゃんどうしたのかな?」と思っていたに違いない。
ぼくは、実際そのシーンをテレビ中継で見たが、その時長嶋は普通の顔をしてバッターボックスに立っていた。どう見ても、燃えている顔ではなかった。
ホームランはたまたまでしょう。

ぼくが初めて長嶋を生で見たのは、小倉球場で“さよなら西鉄ライオンズ”を見に行った時だった。
ぼくは大の西鉄ファンだったが、あいにく席が3塁側しか空いてなかったのでしかたなくそこに座った。
試合前、背番号3がうろうろしていた。
試合中も背番号3はベンチから出たり入ったりしていた。
落ち着きのない人だなあと思ったものだ。

長嶋が引退した日、ぼくは富士急ハイランドにいた。
昭和49年10月14日、その日は高校の修学旅行二日目だった。
遊園地で一通り遊んでからホテルに戻ると、ロビーに人垣ができている。
「何だろう?」と思い、見ている人に聞いてみると、今長嶋が引退の挨拶をしているということだった。
ちょうど、その時あの名ゼリフ「巨人軍は永遠に不滅です」というのが聴こえた。
しかし、部屋に戻ってから誰の口からも「長嶋」は出てこなかった。
そんなことに関心がなかったのだろう。
みんなの関心事は、ぼくを脱がせることだったのだから。



研修物語 3

翌日、6時起床だった。
起き抜けに隊長が「山頂までランニングしましょう」と言った。
坂道を1キロ以上走らなければならない。
みんな「ええっ!?」と言ったが、隊長の命令には逆らえない。
前日の天突きで思うように走れない。
それにしても、朝のランニングはこたえる。
ぼくは走っていて、だんだん気分が悪くなってきた。
山頂に着くと、さすがにみんな息を上げていた。
それを見て隊長が「じゃあ、天突きやりましょう。そうですねぇ、100回やりますか」と言った。
その言葉を聞いたとたん、力が抜けた。
隊長が「1、2・・・」と数を数えながら、天突きをやりだした。
『どうにでもなれ』という気持ちで、みんな後に続いた。
ぼくも張り切って50回ほどやったが、脱落してしまった。
最後までやっていたのは、自衛隊出身の同僚だけだった。
その後、その場で朝礼が行われたが、ぼくはもう立っていられなかった。
気分が悪い。
「すいません。ちょっと気分が悪いので座ってていいですか?」とぼくは隊長に言った。
さすが隊長である。ぼくを気遣うでもなく、「よし!」と言ったきりだった。

ホテルに戻って朝食をとった。
ぼくは気分の悪さから復活して、ご飯を3杯おかわりした。
みんなから「お前、本当に気分悪かったんか?」と言われ、ひんしゅくをかった。

その日は、実戦の研修を行った。
まず、敵陣突破だった。
「こんにちは、○○のしんたです。今日は電子レンジのお話で参りました。時間は取らせません。5分でけっこうです。話を聞いてください」
これを一字一句間違わずに言えたら、一歩進む。間違えたら1歩後退。
10歩進んだら合格となる。
これだけなら大したことはない。
しかし、あの隊長がその程度のことをさせるわけはない。
人を囲ませて野次を飛ばさせるのだ。
最初は「ビデオは売らんとか」とかありきたりなことを言っていたが、だんだんエスカレートしてきて、「おい、しんた!お前あの女とどうなったんか!?」などとプライベートなことを言うようになった。
ぼくは、あまりそういうことを気にするほうではないので、わりとすんなり敵陣を突破した。
が、いろいろ言われて動揺し一歩後退を繰り返す者や、中には泣く者まで出てきた。その人は、触れられたくないことをズバッと言われたらしい。
あとで「あそこまで言わんでいいやろ!」と憤慨していた。

それが終わって最後の項目、表現力の研修を行った。
隊長が「小さなトランジスタと大きな冷蔵庫を、体を使って表現してください」といい、二人ずつ前に出てやらされた。
一通り終わり、次に「悲しみと喜びを表現して下さい」と隊長が言った。
人間性というのはこういう時に出てくるものだ。
口数の少ない大人しい主任がいた。
その人が突然大声で「3歳になる娘が死んだ!」と言い、泣き出した。
真に迫っていた。もらい泣きする人まで現れた。
他に「上司の前で失敗してしまった。ぼくは真面目にやっているのに・・・」と愚痴をたれる人もいた。
一般に、悲しみの表現は誰でも真に迫るが、喜びの表現は皆お笑い系になってしまう。そのギャップをぼくは楽しんでいたが、ぼくの演技は笑いを取れなかった。

午後5時になり、最後に前日作ったスローガンを怒鳴った。
長かった一泊研修は終わった。
そのときはよくわからなかったが、振り返ってみると意味のない研修であった。
ただ、一つ、どんな嫌なことでも時間が来たら終わるということを学んだ。

翌日会社に行くと、誰もが、声は森進一、動きはロボコップになっていた。



研修物語 2

続いて、商品勉強に入った。
機能的な説明はきわめて短かったが、その後にあった実演が長かった。
班ごとに一人一人やらなければならない。
全員エプロンをつけて行った。
作るものは、ポップコーン・べっこう飴・焼き芋・焼き魚などだった。
一班5人程度だったので、全員やらなければならなかった。
一品目を決められた時間で作りながら説明していくのだ。
普段は口の達者な者も、実演をしながら、というのは難しい。
「このボタンを押して、○分待つと、こうなります」と説明するが、こうなってくれない。
そのうち時間オーバーしてしまう。
そして、天突きが待っていた。
とくにぼくたちの班は、何回も天突きをやらされた。

さて、実演が終わると、計画立案に入った。
まず、各班のスローガンを決めることから始まる。
そして具体的な、売上計画や活動計画を立案する、といったものだった。
スケジュールでは、計画立案は午後10時から午前1時までということになっていた。
それまで余った時間(1時間半ほど)を、大声を出すための時間に充てていた。
左足を前に出し右手を上げ(エイエイオーのポーズ)、「やれば出来る!やらねばならぬ!電子レンジキャンペーン!」と大声で怒鳴る。
これを何度もやらされた。
最初は全員、それから一班ごと。
全員の時は、自分の声は隠れてしまうから、誰も大きな声を出さない。
それを見越して、隊長は「もう一度!」「やり直し!」で、なかなか「よし!」と言ってくれない。
気に入らない場合は、その場で天突きをやらされる。
もうさんざん天突きで足腰を痛めつけられているので、もう誰もやりたいとは思わない。
しかたなく、皆本気になってくる。
だんだんエクスタシー状態に陥ってしまう。
そしてある程度時間がたってから「よし!」となった。

今度は班ごとにやらされる。
もう全員気持ちがイってしまっているので、最初から手抜きをしない。
それでも隊長は「よし!」を言わない。
どの班も最低5回はやらされる。
うちの班は、声だしリーダーをぼくがやった。
リーダーのあとに続いて、他の人が怒鳴る。
最初は照れもあったが、もうこの時点ではすでに気持ちがイってしまっている。
元々地声は大きなほうなので、誰にも負けないつもりでいた。
が、最初からつまずいた。
先ほど、全員でやった時にのどを痛めてしまったのだ。
声が裏返ってしまった。
すかさず隊長が「腹から声を出しましょう」
腹から出しているつもりなのだが、声がついてこない。
3度目でやっと声が出たが、「もう一回」だった。
そして6度目にやっと「よし!」をもらった。

さて、各班部屋に戻り、計画立案が始まった。
わが班のスローガンは、「命をかけたこの戦!売って売って売りまくれ!」だった。



研修物語 1

昭和56年の3月、ぼくはある大型電気専門店に就職した。
その秋、ちょうど今頃だったが、初めての泊り込み研修があった。
そのころ、会社をあげて電子レンジの売り込みキャンペーンをやっていたのだが、それを成功させるために、商品知識の勉強や販売の仕方などを徹底して社員に植え付けるための研修だった。要は自己啓発セミナーのようなものだった。
指導はシャープの“アトム隊”というところが行った。
市内の国民宿舎を借り切っての、一泊二日の研修だった。
朝早く集合して山に登り、国民宿舎に到着後、研修は始まった。

まず、研修期間内のルールが説明された。
説明はアトム隊の隊長と、アシスタント役の副隊長が行った。
隊長は目付きの鋭い、どすの利いた声の人だった。
対照的に、副隊長は優しそうな物腰のやわらかい人だった。
ルールは、
・肩書きや敬称などを捨て、すべて名前の下に「隊」をつけて呼んだり名乗ったりすることが義務付けられた。
例えば「しろげさん」と呼ばずに、「しろげ隊」と呼ぶ。
・名前を呼ばれたら必ず大きな声で返事をする。
・研修場に入る時は、大きな声で名前を名乗って入る。
例「しろげ隊、入ります!」
以上、声が小さかったり、聞き取りにくかったりした場合は、「やり直し!」となった。
三回やり直しになると、バツとして天突き体操をやらされる。
天突き体操とは、スクワットのことである。
・何班かに分け、班ごとに行動する。
・1,2時間に一度のわりで休憩時間を設けるが、遅刻して入室した場合、遅れて入ってきた人の班全員で天突き体操を行わなければならない。
・班ごとの競争で、負けたほうは天突き体操をしなければならない。
・・・などである。
説明後、アトム隊の隊長が「じゃあ、声を出す手本を見せます」と隊長は副隊長の名前を呼んだ。
すると、優しそうな物腰のやわらかい副隊長は、急に人が変わったようにシャキッとなり、大声で「はい!」と言った。
これを何度も何度も繰り返した。
すると、副隊長がだんだん何かにとり憑かれたようになり、突然目の色が変わった。完全にイってしまっている。
隊長のほうは、最初からイってしまっている。
ぼくたちは、あ然として二人を見ていた。
異様な光景を見た後、今度はぼくたちが「はい!」の練習をさせられた。
それが終わってから、隊長が「今度は天突き体操をやってみましょう」と、先頭を切って天突きを始めた。
最初は10回ほどで、大したことはなかったのだが、あとでこれを嫌と言うほどやらされることになる。



記事検索
RSS
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ